おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

平凡になることの価値

「道」のはたらきとして、鋭いけばけばしさをおさえて平凡なおのずからなありかたに沿うことである。

 

最高のまことの善とは、たとえば水のはたらきのようなものである。水は万物の生長をりっぱに助けて、しかも競い争うことがなく、多くの人がさげすむ低い場所にとどまっている。

金谷治老子

 

私たちは誰もが真似のできるような平凡なものには価値を見出せず、誰も真似のできないような何か特別なものにしか価値がないように錯覚してしまう。

 

また、自分ではないもので自分の価値を規定できると段違いな勘違いをしてしまう。

 

この2つの錯覚と勘違いが組み合わさり、私たちは、何か特別なもので自分の価値を規定しようとする。そして何か特別なものを手に入れようとして日々ネバギバの精神で頑張っている。

 

何か特別なものを手に入れれば、その分だけ自分の価値は上がる。

そうして自分の価値を人に証明し、認めさせることができれば、人から大事にしてもらえる。

 

人生は何か価値のある特別なものをより多く手に入れ、その分だけ自分の価値を上げ、人から大事にされてなんぼ。

 

みたいな感じのニュアンス的な雰囲気の発想。

 

意識的にせよ無意識的にせよ、そういった発想で私たちは日々ネバギバの精神で頑張り、どちらが上なのか、どちらが正しいのか、どちらが優秀なのか、どちらが善良なのか、どちらが正義なのか、どちらが価値のある人間なのか、ということを競い合い、心身をボロボロにしている。そしてリポビタンDを飲んでいる。

 

じゃがしかーし、競争に打ち勝ち、特別なものを手に入れ、自分の価値を上げ、人が大事にしてくれるのを期待して待つ、というまどろっこしいことなどせずに、はじめから自分で自分を大事にすればいいジャマイカ

 

競争に打ち勝てるかどうかは定かではなく、また競争に打ち勝って手に入れた特別なものも諸行無常の理によってその価値はどうにでも変動する。そのような不安定なもので自分の価値を規定しようとする。また自分ではどうにもコントロールできない他人から大事にしてもらえることを期待する。

 

これほど不安定な思考パッターンはないのだけれど、これを地で行こうとしているのが私たち自称大人なのであーる。

 

そうであれば発想を転換し、自分は自分にとって大事になのだから(これは幻想でもなんでもなく紛れもない事実だ)、他人から大事にしてもらうことを期待せずに、自分で自分を大事にしていけばいい。そのほうが確実で安定している。

 

自分を大事にするために必要なことは、睡眠、家事(炊事、洗濯、掃除)、運動などで、何も特別なことをする必要はない。びっくりするくらい平凡なことで、誰もが真似のできることだ。特別な資格も特別な能力も大金も必要ない。平凡すぎて価値が低いものとされているくらいだ。

 

(だから何か特別なことで自分を規定しようとしている人は、特に家事を時間の無駄だとして蔑ろにする傾向があるのかもしれない。そしてそのような人は家事は価値の低い人がやるもので、自分のような価値のある人間がやるものではないと思い込んでいるのかもしれない。この思い込みから家事を巡る夫婦間の対立が生じているのかもしれない。)

 

しかし、そういった自分を大事にするため習慣はとんでもなく価値がある。まさに水のようなもので、生活全般を整え、健全な生長の手助けをしてくれるし、競争とは無縁で、しかも平凡すぎてその真価を認められておらずむしろ軽視されている。

 

特別なものを手に入れて人から大事にされようとすると、無論、競争に勝つための努力、人を見下すための努力をすることになり、自然とその人のありかたは「鋭いけばけばしい」ものになる。

 

一方で、自分の大事さに気づき自分で自分を大事にしていこうとすると、競争とは無縁となり、特に特別なことは必要なく、平凡なことで自分を大事にするという目的は達成され続けるため、自然とその人のありかたは「平凡なおのずからなありかた」、平凡で気取ったところのないあり方になってくる。

 

無論、どちらの方向に向けて、自分の時間と労力とお金を使っていくのかは完全に個人の自由。

 

なるほど。

 

自分がいかに人を見下そうとして、自分の人生の膨大な時間と労力とお金を空費してきたのかがわかった。自分は人を見下すことによる高揚感を幸福感と勘違いして生きてきたかがわかった。そしてその結果、確かに「鋭いけばけばしい」感じになっていた。

 

自分は人とは違う特別な人間なんだという自惚れた前提に立ち、自分は正しく優秀な人間なんだという自惚れた前提に立ち、自分自身や周囲の人をいかに粗末にしていたかがわかった。

 

いやー、まいったね。

 

声出して切り替えていこう。