おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

相手のことはちゃんと見えない

人間は「他人がしてくれたこと」より、自分が「してあげたこと」に関する情報をより多く手に入れる。自分がした努力はすべて分かっているが、パートナーの努力については一部を目撃するにすぎない。

アダム・グラント『GIVE&TAKE 「与える人」こそ成功する時代』

 

私たちは相手のことをあたかも全てわかっているかのように決めつけ、賛辞を送ったり誹謗中傷したりするのだけれど、実際問題、私たちには相手のことがよく見えていない。

 

相手の言動の一時的な一部分を見て、ただそれだけで相手のことを決めつけているに過ぎない。

 

それは実際の等身大の相手ではなく、相手の言動の一時的なごく一部を材料に自分なりの解釈を加え、自分なりに加工編集し、自分なりに歪めて膨らませた虚像でしかないのだけれど、私たちはその虚像を実際の相手だと錯誤する。

 

ある人物Aについて、ある人は称賛し、ある人は誹謗中傷する。

Aさんは称賛と中傷のどちらに値するのかというと、それはわからない。

 

Aさんを称賛する人は、その人なりの「良いAさん像」を作り出しその虚像を称賛しているし、Aさんを中傷する人はその人なりの「悪いAさん像」を作り出しその虚像を称賛しているに過ぎない。

 

両者ともAさんを正確に捉え損ねている。

 

Aさんの実際のことはよくわからないにも関わらず、Aさんのことをよく見える人にはそうとしか見えず、Aさんのことを悪く見える人にはそうとしか見えない。

 

つまり、自分にとってそう見えている世界が自分にとっては現実なのだけれど、自分にとってそう見えている現実は万人にとっての現実ではない。

 

事実として正しいのは、あの人にはAさんが良い人に見えている、あの人にはAさんが悪い人に見えている、でも実際にAさんがどういう人なのかはわからない、という見方になってくる。

 

このことを弁えずに、自分は陰毛が生え揃っている立派な大人であり、それ故に私は絶対的に正しいんだぽよと自惚れ、自分が見えている世界が万人にとっても正しいと思い込んでいると、なんで私に見えているとおりにお前には世界が見えないんだ、なんでこうじゃないんだ、ああじゃないんだ、と喚き散らし、怒り散らし、ネットに誹謗中傷を書き連ねることになってしまう。

 

なんでお前にはあの化物が見えないんだという誇大妄想狂と本質的には変わらない状態ということになってしまう。ドン・キホーテ先輩と同じ状態ということになってしまう。

 

正しい自分像に自惚れ、他人を粗末にし、その粗末にする習慣によって、自分の身体も粗末にし、自分の心も粗末にし、自分の持ち物も粗末にし、自分の身近な人も粗末にし、不安と恐怖と強迫観念の無限ループにはまり込んでしまう。

 

相手の情報はごく一部でごく一時的なものなのだけれど、自分とは常時一緒にいるため、自分の情報は常に手に入る。

 

だからといって自分のことは正確に捉えることができるのかというとそうではなく、私たちは基本的に認知が歪んでいるために、自分のことさえも歪んで捉えてしまう。

 

自分はこういう人間なんだと思い込んでいても、実際の自分にはそうでない側面がある場合がほとんどなのだけれど、その現実を見ようとせず受け入れようとしない。

 

自分のことを清く正しく善良な人間と思い込んでいても、よくよく自分の内面に注意を向けると、敵意や憎悪や冷たい側面や邪悪な側面や臆病な側面や弱々しい側面や醜悪な側面や変態的な側面や愚かな側面や無能な側面や吝嗇な側面など、人に誇りを持って公言できないような側面が厳然としてあるのだけれど、そういった現実は見ようせず、自分がやることなすこと全てを清く正しく善良なものとして捉えようとしてしまう。

 

(そうして自分が実際の自分を無視したり歪めて見ているから苦しいのだけれど、この道理がわからずに自分に生じる苦しさは全て他人のせいだと思い、清く正しく善良な自分に苦しみをもたらすなんて何事なんじゃいと思い、そうしてまた人を責めて粗末にし、その粗末にする習慣によって苦しみの無限ループにはまり込んでいく)

 

情報が限られた相手のことも正確に見ることができず、情報が十分にあるはずの自分のことも正確に見ることができない。

 

全てを自分が執着している自分像にとって都合の良いように歪めて捉えてしまう。

 

そうして歪んで捉えたものを自分なりの現実とし、その歪んだ現実の中に生きている。

 

このことを弁えていれば、自分は今、相手ことをちゃんと見ていないのかもしれない、自分のことをちゃんと見ていないのかもしれないと立ち止まることができ、自分のことも相手のことも大事にしやすくなってくる。

 

努力しているのは自分だけではないし、相手だけでもない。

 

無論オムロン、どんなに努力していてもその努力の方向性が間違っていればやばいことになってしまうが…。

 

(自分と自分ではないものの区別ができず、自分ではないもので自分の価値が規定できると思い込み、自分ではないものをかき集め、そうしてかき集めた自分ではないものを根拠にして他人を見下し優越感を得るための努力、つまり自分や他人を粗末にする努力を続けていくと、自分の思い込みの中では優越感を得ることによって幸福になると思っていたものの、実際にはひたすらに不安と恐怖と強迫観念に苛まれ、ずっとカリカリしている状態になる、みたいな感じのニュアンス的な雰囲気)

 

今日も自分の認知によって歪められた自分の現実の中で仕事を頑張ろうと思う。

 

声出して切り替えていこう。