もしも面罵されたなら、その人の隠し持つ「目的」を考えるのです。
(その相手は)勝ちたいのです。勝つことによって、自らの力を証明したいのです。
岸見一郎 古賀史健『嫌われる勇気』
職場に何かにつけて批判的な人、どうでもいいと思うようなことを大きく捉えて自分の意見を曲げない人がいる。
その人には世界がどのように見えているのかしらん。
その人はどういう世界にいるのかしらん。
このように考えていくと、どんな人も観察の対象になり、自分が人を通して見える側面は自分の側面でもあるため、人を観察するということはそのまま自分を観察するということになり、どんなに面倒くさい人がいたとしても、それはそれで面白くなる。
話を戻そう。
何かにつけて批判的な人はどのような世界にいるのか。
何かにつけて批判的ということは、人のことを認めないということだ。
人のことを認めないと、認められない世界というものができあがる。
その世界の中では、その人は何かにつけて人から認めてもらっていないと感じるようになる。
他人のちょっとした言動でも、あいつがあんなことをするのはおれっちのことを認めていないからだ、と捉えてしまうようになる(相手に確かめたわけでもないのに、そうに違いないと断定して思い込んでしまう)。
相手に確かめたわけでもないのに、なぜなぜどうしてそう思い込んでしまうのかというと、それは自分自身が相手の立場だったら、相手のことを認めない気満々でその素振りを自分自身がするからだ。
例えば、相手の間違いを指摘する時に、普段から相手のためを思って指摘していると、相手から指摘された時に、相手は自分のことを思って指摘してくれていると思うことができ、相手に感謝することができる。
一方で、相手の間違いを指摘する時に、普段から相手を愚弄する気持ちで指摘していると、相手から指摘された時に、相手は自分のことを愚弄しているに違いないと思い込んでしまい、相手に腹が立ってしまう。
この例であれば、どちらの場合においても、相手がどのような気持ちで指摘しているのかという真相は全くわからない。
だがしかーし、相手からの指摘をどう捉えるのかが大きく異なっている。どう感じるのかが大きく異なっている。
それによって自分の中からわき起こってくる感情なり思いなりが大きく異なっている。
そしてその違いを生み出しているのは、自分が日頃から起こしている思いでしかない。
よって認められない世界にいる人は、日頃から人のことを認めていないからこそ、認められない世界にいる。
そして、認められたいのに認められないと感じてしまうため苦しい。
相手を認めないから認められない世界ができるのだから、相手のことを認めていけば認められる世界ができるのだけれど、わたしたちはその因果関係がわからないために、私たちなりの因果関係、つまり、自分の力なり価値を証明すれば人は自分のことを認めてくれる、自分のことを大事にしてくれる、自分のことを大事にしてくれると盲信し、自分の力なり価値を必死にアッピールしようとする。
だから、何かにつけて批判的な人、面罵してくる人というのは、認めてほしいのに認められない世界の中にいて、その世界の中で苦しんでいて、その苦しみをどうにかしようと、何らかの機会を見つけては自分の正しさなり力を証明し、自分が勝者であることを証明し、そうすることによって他人から認めてもらい、大事にしてもらい、自分の寂しさを解消しようとしている、皮肉ではなく可哀想な人なのであーる。
そしてそういう人たちだけではなく、私たちも自分の根本的な寂しさをどうにかしようと、価値のあるものをかき集めて、価値のある自分になり、価値のある自分というものを証明しようとしている。
みんな一緒なのである。
だからと言ってこのままでいいということにはならない。
自分の力なり価値を他人に証明するための努力は、不毛であり、苦しみしかもたらさず、根本的な寂しさの解消にはならないからな。
だから、努力の方向性を見直す必要がある。
声出して切り替えていこう。