おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

人を認める基準は低くする

私たちは人よりも突出したもの、特別なものをもって人を認めたり、肯定したりする。

 

毎朝歯を磨いている人のことは眼中になく、総入れ歯(金歯)の人をすっごーいと言って認めたり、肯定したりする。

 

自炊している人のことは眼中になく、毎食高級レストランで食事をすませている人をすっごーいと言って認めたり、肯定したりする。

 

上記の例において、後者については無論どちらもすごい。それはそうなのだけれど、だからといって、毎朝歯を磨くことや毎食自炊をすることは果たして価値がないのか、というと、それらは楽勝で価値がある。

 

平凡で地味だけれど楽勝で価値があるもの、楽勝で大事なことというのは実はたくさんあるのだけれど、私たちはそれらを、皆もできるから、というただそれだけの理由で評価しない。

 

よくよく考えれば、私たちは自分にとって大事なこと、価値のあることを日常的に楽勝でたくさんしているのだけれど、それが私にしかできない特別なことでない限り、それができている自分を評価しない。

 

平凡で地味だけれど大事なことを楽勝でやっている自分のことや他人のことをすごいと思わない、良いと思わない、認めない、肯定しない。

 

むしろ、こんな自分はダメさかい、あんな人はダメさかい、誰も真似のできないような特別なことができない自分はダメさかいあの人はダメさかい、となぜかエセ関西弁で否定に走る。

 

私たちが人を評価する基準は、ごく一部の人にしかできないことやその希少性に基づいている傾向がある。つまり、我々の物事の肯定基準がいわゆる市場の原理みたいな感じのニュアンス的な雰囲気の塩梅風のスタイルらしいベクトルチックなスタンスっぽいグルーヴ感に完全に飲み込まれている。

 

日常生活において、営業成績や学業成績など競争原理で評価される部分ももちろんあるにはあるのだけれど、それはごく一部に過ぎず、実際の日常生活の多くは平凡で地味だけれど大事なことによって支えられている。

 

夜に寝て朝起きること。

顔を洗うこと。

歯を磨くこと。

身だしなみを整えること。

勉強すること。

働くこと。

自炊すること。

洗濯すること。

掃除すること。

買い出しすること。

挨拶すること。

運動すること。

などなど

 

上記のものはどれも平凡で地味だけれど大事なことで、全てではなくても多くの人がどれか一部をやっていることだし、やっていない人もやろうと思えばやれることだ。(この平凡で地味だけれど大事なことの基準も私の個人的な基準に過ぎない)

 

自己否定に陥り、苦しい世界に生きている人は、人を認めるハードルが高すぎる傾向にある。何か突出した特別な点がない限り、自分やその人のことを認めない傾向にある。そして、そのハードルに達していなかったり、何か突出した特別な点がない場合、自分を含めて人を一律でバッサリとぶった切り、価値がない人間、注目に値しない人間、粗末に扱ってもいい人間として定義してしまう傾向にある。

 

確かに自分にも相手にも何か突出した特別なところはないかもしれない、それはそれで厳然たるガチのムチの事実かもしれない。

 

だがしかーし、ただそれだけで本当に自分や相手は無価値な人間なのか。粗末に扱ってもいい人間なのか。無視してもいい人間なのか。傷つけてもいい人間なのか。平凡で地味だけれど大事なことを一切やっていない人間なのか。

 

自分は相手をどういう基準で肯定したり否定しているか。そのハードルはあまりにも高すぎてはいないか。

 

相手に適用している肯定基準は同時に自分にも適用され、その基準があまりに高すぎ、基準を満たしていない人に対して冷淡な気持ちを起こしていると、その冷淡さは自分を何よりも傷つけることになる。

 

人や自分を認める基準は低いに越したことがない。

 

逆に、低い基準でもって相手を肯定することができれば、その分自分のことも楽勝で肯定できる。自分や他人の肯定できる点をたくさん見つけることができる。自分を大事にできる。もちろん、至らない点も目につくかもしれないが、それはそれとして、そこに注目するよりも、肯定できる点に注目していったほうがいい。そうして自分を大事にしていった方がいい。

 

みたいな感じのニュアンス的なことを今後も心がけていこうと思うさかい。