おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

平凡を否定する思考パッターン

普通であること、平凡であることは、ほんとうによくないことなのか。なにか劣ったことなのか。じつは誰もが普通なのではないか。そこを突き詰めて考える必要があります。

 

普通を拒絶するあなたは、おそらく「普通であること」を「無能であること」と同義でとらえているのでしょう。普通であることは、無能なのではありません。わざわざ自らの優越性を誇示する必要などないのです。

 

岸見一郎 古賀史健『嫌われる勇気』

 

私たちはどこかで、特別な人間にならなければならない、みたいな感じのニュアンス的な雰囲気の強迫観念を抱いているように思う。

 

普通のままではいけない、平凡はつまらない、人とは違う特別な何者かにならなければならないみたいな感じのニュアンス的な雰囲気の強迫観念。

 

その種の強迫観念に突き動かされて、特別な人間になるために何か特別なものを手に入れようとしたり、特別なことをしようとしたりする。

 

自分を特別な人間にしてくれそうな何かを必死にかき集め、そこに膨大な時間と労力とお金を投じてしまう。

 

この強迫観念の根本には寂しさがある。

 

寂しい、人から注目されたい、でも、普通だと認められない、特別でないと認められない、だから普通を抜け出して特別になるでやんす。

 

特別な人間になれば、人から見てもらうことができ、認めてもらうことができ、大切にしてもらうことができるでやんす。

 

という思考パッターン。

 

どうしてこのような発想が生じ、強化されていくのかしらん。

 

それは何よりも自分自身が普通な人、平凡な人の存在を認めていないからだ。

 

そして、何よりも自分自身がいわゆる「特別な人」の存在しか認めていないし、「特別な人」のことしか注目していないし、「特別な人」のことしか敬意を払わないし、「特別な人」のことしか大事にしようとしないからだ。

 

自分が平凡な他者のことを認めていない、敬意を払っていないが故に、平凡なままだと誰からも認めてもらえない、誰からも敬意を払ってもらえないと思ってしまう。

 

自分が平凡な人を認めないから「平凡な人は認められない」という世界、「特別な人しか認められない」という世界(思考パッターン)ができあがる。

 

そういう世界にいるが故に、人から認めてもらうために特別なものや特別なことに執着してしまい、逆に平凡なものやことを疎かにしてしまう。

 

この思考パッターンを切り替えるために、平凡な人を認めていけばいい。

 

自分が平凡な人のことも認めれば、「平凡な人は認められる」という世界(思考パッターン)ができあがる。

 

その世界の中で、すでに自分は認められている(平凡な自分のことを自分自身で認めることができている)ため、認められるために特別な人間にならなければならない、という強迫観念や特別なものや特別なことへの執着も生じにくい。

 

おれは特別な人間なんだぽよ、あちしは価値のある人間なんだぽよ、とわざわざ自分の優越性をアッピールする必要もないので、精神的にも楽だ。

 

優越性をアッピールしたくなる人というのは、平凡であることを否定し、特別な人間にならなければならないという強迫観念に突き動かされて苦しんでいる。

 

平凡や普通を否定する思考パッターンは苦しみを生むだけなので(それは自己否定でしかないからな)、離れていったほうがいい。

 

そしてその思考パッターンから離れるためには他者が必要で、周囲の平凡な他者を認めていくことで、それは少しずつ実現されていく。

 

声出して切り替えていこうと思う。