おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

「自分なりの現実」しかない

一言で現実を呼ばれるものを理解するのは、やさしいことではない。世界の現実とか世の中の現実などとあっさり言うが、そこには事象の断片が散らかっているだけだ。とりとめもない現実のなかで、一人ひとりの人生も散漫になっていく。

辺見じゅん『収容所から来た遺書』吉岡忍「解説」

 

私たちが「現実」と呼んでいるものは、「自分なりの現実」でしかなく万人共通の現実というものはない。

 

なぜかというと、私たちは物事をありのままに捉えておらず、必ず自分の心のフィルターを通して捉えており、その見え方は日々の習慣、思考パッターン、過去の経験により必ず歪められ、その歪み具合は人それぞれ千差万別だからだ。

 

このことを理解できていないと、自分が見えている世界が万人共通の現実だと思い込み、自分が捉えているとおりに物事を捉えていない人を見ると、あいつはおかしい、異常だ、なんでこう見えないんだ、なんでこう思えないんだ、なんでおれっちの言う通りにしないんだ、なんであしちの思い通りにならないんだと怒り狂い、罵詈雑言を喚き始める。

 

んじゃあ、どうして他人や物事が自分の思い通りにならないといけないのか。

どうして自分の現実と他人の現実を一致させようと必死なのか。

どうして自分の現実と他人の現実が違っていたらいけないのか。

どうしてその違いによって自分は苦しむのか(中には苦しまない人もいるわけだ)。

 

ある一つの事象から、ある人はそれを好意として受け取り感謝の念が起き、他方はそれを悪意として受け取り憎悪の念が起きる。ある一つの事象から、ある人は喜びを生み出し、ある人は苦しみを生み出す。

 

自分の心のフィルターが喜びの解釈=自分なりの現実を生み出し、その現実の中にいるのか、自分の心のフィルターが苦しみの解釈=自分ありの現実を生み出し、その現実の中にいるのか。

 

「事象としての現実」と「解釈としての現実」があり、個々人が直接生きているのは解釈としての現実の中で、解釈としての現実の外側に事象としての現実がある。

 

そして私たち自称大人は、事象としての現実を自分の思い通りにすることに必死になり、その中で他人と競争し、罵り合っているのだけれど、どんなに事象としての現実が思い通りになっても(それも諸行無常によって実際には絶対叶わない)、解釈としての現実が苦しみに満ち満ちている限り、自分なりの現実は苦しいままで、そうした苦しい現実の中で生き続けていくことになる。

 

そして自分の苦しみの原因は「事象としての現実」にあると思い込み、「事象としての現実」を変えようとしてネバギバの精神で他人を罵倒する、他人を強制できるような力を際限なく求め続ける、そしてその持ち前の罵倒精神と力への渇望が苦しみを生み出すという無限ループにはまり込む。

 

バラバラの事象を自分の心のフィルターまとめ上げ、喜びの現実を生み出しているのか、苦しみの現実を生み出しているのか、あるいはまとめ上げることさえもなく、散漫で虚無的な現実を生み出しているのか。

 

自分なりの現実というのは、強い刺激で自分を誤魔化していない限り、今この瞬間も目の前に展開されていることがわかる(事象は関係ない)。

 

自分は事あるごとに、どのような解釈を繰り返し、どのような反応を繰り返しているのか。

 

その繰り返し自体、リッピート自体、習慣自体が「自分なりの現実」そのものなわけだ。

 

自分が自分だと思い込んでいる「きれいな自分像」とはかけ離れたヤバい現実が見えてきたので、自分なりの現実を誤魔化すために「一平ちゃんを夜店の焼きそば」を72個爆買いしようと思う。

 

声出して切り替えていこう。