おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

結局、温かさ

「野本さん、釈迦はね、世界最大のセンチメンタリストなんだよ。キリストは詩人なんだ。ぼくはね、なんのとりえもない凡人だけど、どんなときでもセンチメンタリストでありつづけたい。結局ね、パトスだけがわれわれ人間にとって最初の審判者であり、また最後の審判者なんだ。そう思えてきたよ」

辺見じゅん『収容所から来た遺書』

 

ここでいう「パトス」というのは「感情」や「思考パッターン」で「センチメンタリスト」や「詩人」というのは「温かい」や「寛容」ということだろう。

 

ゴータマ・シッダールタ先輩やキリスト先輩を始めとする異次元の賢者たちは「温かい感情」や「寛容な思考パッターン」を体得していて、それ故に、他人や自分を責めることがなく、他人や自分に対し温かく寛容に接することができ、明るい世界を生きることができた。

 

しかしながら私たちは冷たい懲罰思想を人生を通じて育み、いかに自分が清く正しく善良な人間であるかを証明し、清く正しく善良ではない他人をいかに責め立て罰することができるかということを追求している。

 

自分の都合で何らかの基準や条件や枠組みを設け、そこから外れた自分や他人を悪として見なし、その悪を罰しようとし、苦しめようとし、そうすることによって力をもった善良な懲罰者としての自分を感じることができ、そうすることによって気持ちよくなることが人生の目的であるかのような生き方にはまり込んでいる。

 

温かい心や寛容な思考パッターンとは程遠い冷たい心や不寛容な思考パッターンを土台にした日々。分けて罰して苦しめようとするための日々。優越感を追求するだけの日々。

 

誰かを否定しようと目を血走らせているだけの日々。

誰かに否定されないようにびっくんびっくんするだけの日々。

 

そらぁ、苦しいだろうと思う。

 

人生は苦なりと言いたくなりますどすなー、となぜか京風になってしまったが、結局はそういうことだろう。

 

自分や他人へのパトス、つまり感情や思考パッターンが温かいものでなければ、それが審判者となり、自分が自分を責めて苦しむことになり、その人の世界は暗いものになっていく。

 

という話を聞いて、よーし温かくするぜよ、と意気込んで本気でやろうとすると、自分の心や思考パッターンが全然温かくないことが突きつけられる。

 

他人に対して心の底から温かく接することができない自分が知らされる。

自分というものが思っている以上に善良な人間ではないこと、温かい人間ではないことが知らされる。

自分が自分として思い込んでいる自分像とはかけ離れた感情や思いや考えが自分の中にあることが知らされる。

 

そうして突きつけられた実際の自分を責めることなく受け入れていく。

こんなに冷たくて醜い自分は自分じゃないぽよと憤慨することなく受け入れていく。

 

あいつが悪いからこんな感情が起こってくるんだぽよ、だからこういう感情は正しいんだ、善なんだと正当化することなく、冷たいものは冷たいものとして、醜いものは醜いものとして、とにかく自分の中で起こるものは全部自分の一部としてそのまま受け入れていく。

 

言うのは簡単なのだけれど、清く正しく善良な自分という虚像を自分だと思い込んでいる自称大人の私たちにとって、実際の自分を受け入れていくという行為はこれまで自分だと信じてきた虚像を崩していく行為であり、虚像を構築するために割いてきた時間や労力やお金が無駄であったということを認めていく行為であるため、それはそれで辛いものがあるのだけれど、その辛さから逃げっぱなしだと、中身がすっからかんの暗い世界を生きる自称大人のまま人生を終えてしまうことになってしまう。

 

今日はファミチキ18個、ハリボーグミ6袋、ハッピーターン2袋を食べ、現実逃避をしようと思う。

 

声出して切り替えていこう。