おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

悪を受け入れていく習慣

精神の健全性は、自分より高いものに自分が従うことを要求するものである。この世の中でそれなりに生きていくには、われわれは、ある特定の瞬間に自分が求めているものに優先する、ある種の原理に自分自身を従わせなければならない。宗教的な人にとってはこの原理とは神である。また、非宗教的な人であっても、その人が正常な人間であるならば、意識的にであろうと無意識的にであろうと、ある種の「より高い力」――それが真理であれ愛であれ、また、他人の求めていることや、現実の要求することであれ――に自分自身を従わせるものである。

M・スコット・ペック『平気でうそをつく人たち』

 

私たちは自分は絶対に正しいという前提に立ち、自分のことは自分が一番わかっていると信じ込んでいるのだけれど、自分が今何をしようとしているのか、自分が今何をしているのか、わかっていないことが多い。

 

自分を知るためには以下のことが必要になる。

 

1|ちゃんと見る

2|変わらない「ものさし」を使う

3|受け入れる

 

1|ちゃんと見る

まずは、対象=自分のことを客観的、俯瞰的に見ることが必要になってくる。

 

自分が今どのような行動をしているのか、どのような考えを巡らせているのか、どのような感情を抱いているのか、どのような思いを起こしているのか、ということを把握する必要がある。

 

この段階ではただ見る。自分がしていることを、自分の内面で起こっていることに何も色を付けることなく、ただただ事実として見る。

 

歩いているなー

口呼吸しているなー

あの人のことを責めているなー

怒っているなー

見栄を張ろうとしているなー

 

みたいな感じのニュアンス的な雰囲気で、良いや悪いの色をつけずにただ自分がやっていることを単なる事実として捉えていく。

 

自分のことを把握しやすくするためには、使っていないものを捨ててたり、規則正しい生活を送ったり、瞑想や日記を習慣にすればいい。

 

使っていないものを捨て、余分なものを捨てることによって、自分の注意が外側に奪われにくくなり、自分の視線を自分ではないものから自分へと向けやすくなる。

 

規則正しい生活をすることにより、自分の行動が一定となりほとんど自動化され、自分の行動の変化や内面の変化に気が付きやすくなる。

 

瞑想や日記により、意識的に自分を見つめることができるようになる。

 

2|変わらない「ものさし」を使う

 

そうして自分が自分の外側でも内側でも行っている行動を事実として把握したら、次は変わらないものさしを使って、それらの行動の善悪を判断していく。

 

このものさしは、自分が信じている宗教のものでも良いし、自分が尊敬している人物の行動原理でもいい。とにかく自分が心から敬意を払えて、こんな感じで行動できる人(この行動には自分の内面的な行動、感情や精神的な行動も含まれる)になりたいなーと思える指針のようなものであれば何でもいい。

 

例えば、仏教をものさしにするとすれば、仏教であれば、怒ることは悪とされている。

 

そしてそのものさしを自分の行動に当てはめた時に、自分は怒っているのだから自分は今、悪をしているということがわかる。自分には悪の側面があるということがわかる。

 

すると私たちは、自分を悪としないために、おれが怒ったのはあいつのせいだ、おれは悪くない、悪いのはあいつだと、誰かを責め、自分を正当化する。

 

あるいは、こういう場合の怒りは正しい怒りなんだとものさしを捻じ曲げる。

 

このように私たちは物事を自分に都合の良いように捻じ曲げて、常に自分は清く正しく善良な人間というところに立とうとする。

 

それでもものさしは変えない。

どんな理由であろうと怒りは怒りだし、怒りが悪であることは絶対に変わらない。

どんな理由であろうと悪は悪だ。

 

(仏教的にいうとどんな理由であろうと怒りは自分に苦しみをもたらすものであるためそれは悪となる)

 

こうして自分に対して注意を向け、どんなことがあってもものさしを変えなければ、自分の悪が見えてくる。

 

自分が採用している「自分より高いものさし」上で悪とされていることを自分が行っているのであればそれは悪だし、自分の内外の行動が自分より高い基準に沿っていない場合もそれは悪だ。

 

そうして自分を見ていくと、自分が純度100%の善人、自分が採用しているものさしや基準を全て常に楽勝でクリアしている人間では決してないということがわかってくる。

 

自分には善の側面ももちろんあるのだけれど、悪の側面もあるということがわかってくる。

 

3|受け入れる

 

そうして、自分に悪の側面があるということがわかった場合、私たちがついやってしまうのは、悪の側面を責めたり、攻撃したりすることなのだけれど、自分の悪の側面をどんなに責めて攻撃しても、自分の悪の側面は消えないし、改善することはない。

 

その悪の側面は紛れもない自分の一部分なのだから、責めれば責めるほどにただただ自分が苦しくなるだけだ。

 

自分の行動をしかと把握し、ものさしを歪めずに適用した結果、自分には悪の側面があるとわかったら、その事実をその事実として受け止める、受け入れるしかない。

 

その事実を受け止められないと、人を責めるか自分を責めるか欲で誤魔化そうとしてしまう。

 

本当は自分には悪の側面があるにも関わらず、あたかも自分には悪の側面はないように振る舞うか(人の悪の側面を容赦なく責めることができるということは自分には悪の側面は全くないという前提に立たないとできない)、酒・ギャンブル・風俗・買い物・ネットサーフィン・ゲームなどの刺激物で見たくない自分をかき消したり、自分の注意を自分ではないもの、自分の外側に逸らしたりしてしまう。

 

人を責めようとしているのか自分を責めようとしているのか何らかの刺激物で誤魔化そうとしているのかに気がつくことによって、自分が自分の悪の側面を拒否しているのかどうかがわかる。

 

自分には悪の側面があるという事実。

それを責めたり否定したり誤魔化してもその部分は改善されることなく、むしろ苦しみが増幅していくとう事実。

 

これらを踏まえると自分には悪の側面があるという事実を受け入れ、自分には悪の側面があるということを大前提として、その悪の側面の改善に努めていくしかない。

 

自分を把握し、自分の悪を悪として見て、悪を悪として受け入れる。

 

自分の善良な部分は楽勝で受け入れられる一方で、自分の悪の側面はなかなか受け入れられないのだけれど、「ものさし」から見て実際の自分の中には必ず善の側面と悪の側面があるのだから、悪を受け入れられなければ実際の自分を全体として受け入れたことにはならない。

 

実際の自分を受け入れられないと、延々と自分の中に不和状態があることになり、その不和状態が何かに付けて苦しみを生み出すことになるし、純度100%のきれいな自分というイッメージ(悪を否定しているため純度100%という妄想を作り出すことができる)、現実離れした自分のイッメージという幻想に振り回されて、そのイッメージを証明するために人生の膨大な時間を空費してしまうことになる。

 

悪の側面があること自体が本質的な問題なのではなく、悪の側面を受け入れようとしないこと、是が非でも自分は純度100%の善人なんだというところに立とうとすること、これこそが根本的な問題ということになる。

 

悪の側面があり、その悪の側面を受け入れきれなければ、悪の側面を受け入れきれない自分に気がつき、それはそれできちんと悪として見て、その悪を悪として正当化することなく受け入れていく。

 

自分の内外の行動をきちんと把握し、自分の外側の変わらないものさしを使って自分の行動に善悪をしかと割り当て、悪を悪として受け入れていく。

 

これを繰り返すことによって、自分のことを知ることができ、受け入れることができるようになり、その分だけ自分の中の不和が解消されていき、自分を責めることが減ることによって不安や恐怖や強迫観念が減り、自分の内側が整い、悪を受け入れているため、自分は悪くないことをアッピールするために人を責める必要がなくなるため、自分の外側の行動が整い、そのおかげで人間関係も整いやすくなる(悪を受け入れているため、たとえ人からお前が悪いとヒステリーを起こされても、冷静に人の話を聞けるようになる)。

 

ということがわかっていても、私たちは自分のことを清く正しく善良な人間だと信じたいし思い込んでいるので、自分の悪をちゃんと見て受け入れていこうとすることは正直だるい。

 

はじめ一歩は特にだりぃ。

 

確かにだるいけど、そこから逃げると苦しみは根本的に解決しないし、増幅するだけなので、やるしかない。

 

これも習慣と同じだ。

 

上記の1~3の流れは自分の悪を受け入れていく習慣、自分の悪に寛容になる習慣ということになるのかもしれない。

 

だるくなってきたので、今日は惰性ネットサーフィン5時間の3セット(休憩10分)をかまそうと思う。

 

声出して切り替えていこうと思う。