おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

日常を整えるための心がけ

自分は自分にとって大事ということに気がつけば、自ずと自分を大事にしようと心がけることができるようになる。

 

ということは、以下の記事に書いた。

 

osukawa.hatenablog.com

 

自分を大事にするために心がけることは以下の3点。

 

・自分を大事にする

・身の回りのものを大事にする

・周囲の人を大事にする

 

自分を大事にする

(1)自分のために自分が動く

 

基本的に自分が気持ちよく過ごせる環境は自分が動いて自分で整えていく必要がある。

 

しかし、私たちはどうしても、自分が気持ちよく過ごせる環境は他人が準備して当然だ、と考えてしまう。

 

そして、時として、何でこうしてくれないんだ、ああしてくれないんだ、と他人を責めてしまう。

 

それは言い方を変えれば、自分は自分のために動きたくないと言っているようなもので、自分自身には自分の時間と労力と時間を割く価値はないと言っているようなものだ。

 

自分のことが大事であれば、その大事な自分のために自分が気持ちよく動いてあげられる。

 

自分が気持ちよく過ごすために、自分自身が動いて部屋を掃除をする、洗濯をする、料理を作る。

 

自分のことを大事だと思っていると、自分のために必要な家事を自分で行えるようになるし、自分のために必要な家事を自分で行っている内に自分のことを大事に思えるようになってくる。

 

まずは自分が気持ちよく過ごせるように自炊・洗濯・掃除といった基本的な家事習慣を身につけるといいかもしれない。

 

(2)自分の良い側面も悪い側面も受け入れていく

 

誰にでも良い側面もあれば悪い側面もある。

綺麗な側面もあれば醜悪な側面もある。

善良な側面もあれば邪悪な側面もある。

有能な側面もあれば無能な側面もある。

 

はたから見ると完璧に見える人にも必ず良い側面と悪い側面の両方が備わっている。

そして自分にも間違いなくある。

 

良い面も悪い面もどちらもあって人間なのだから、悪い側面があること自体は仕方がない。

 

自分のことを100%綺麗な人間、善良な人間、有能な人間として捉えたい気持ちもわかるのだけれど、それは裏を返せば、自分の醜悪な側面や邪悪な側面や無能な側面を否定するということになる。自己否定することになる。

 

このように、問題は自分に悪い側面があることではなく、自分の悪い側面を悪い側面として認めなかったり、自分の悪い側面を自分で攻撃したり否定したりすることだ。

 

私は綺麗な人間だ、善良な人間だ、有能な人間だ、そういう人間でなければ価値がない、といった思い込みや強迫観念や綺麗なものへの執着が、自己否定へとつながり、苦しみを生む。

 

自分の悪い側面を否定したり攻撃したりして消し去ろうとすることは、自分を大事にすることにはならない。

 

自分を大事にするということは、自分の悪い側面を悪い側面として寛容に受け入れるということだ。

 

言い換えると、自分の悪に寛容になることだ。

 

そして自分の悪に寛容になるためには他人の悪に寛容になろうと努力していけばいい。

 

そして他人の悪に寛容になれない自分に気がついたら、その「悪に寛容になれない自分」を寛容に受け入れていけばいい。

 

とにかく、最終的には自分の悪に寛容であることを心がけていくといいと思う。

 

身の回りのものを大事にする

(1)使っていないものは捨てる

 

私たちはものをかき集めることばかりに注力し、実際にはかきあつめたほとんどのものを使っていない。

 

「使っていない」ということは、そのものを「持っていない」ことと同じだ。

 

極端な言い方をすれば、使っていないものはゴミと変わらない。

 

自分の時間をお金に換え、そのお金を使って「使わないもの=持っていないのと同然のもの」を買う、ゴミを買う、これほどもったいないことはない。

 

これは自分の時間とお金を粗末にしていることに他ならない。

 

この自分の時間とお金を粗末にする習慣から離れるためには使っていないものを捨てていく必要がある。

 

使っていないもの=ゴミを捨てることによって、自分が気持ちよく過ごすことのできる生活空間を整えることができる。

 

部屋の中がすっきりすることによって、掃除もしやすくなり、自分が自分のために動きやすくもなる。

 

(2)身の回りのものをきちんと使う

 

「ものを大事にする」ということは、使わずに放って置く、丁寧に保管しておく、ということではなく、「きちんと使ってあげる」という意味だ。

 

ものはきちんと使ってあげてこそ意味がある。

 

使っていないものを捨てることによって、自然と自分が普段使っているものだけが残るようになる。

 

ということは、それらが自分の日常にとって欠かせない大事なものということだ。

 

使っていないものを減らすことによって、自分にとって大事なものが浮き彫りになり、大事なものをこれまで以上にきちんと使ってあげることができる。

 

ものをきちんと使うということは、それを手に入れるために使った時間とお金を生かしている、大事にしているということになる。

 

また、何かを買う時にはそれを使ってあげられるかどうかを基準して買うことになるので、使わないものを買う、ということが少なくなる。

 

そうすることによって自分の時間とお金を大事にすることができる。

 

使っていないものを捨てることによって、自分の時間とお金と労力を普段よく使うものに注力することができるため、その分、自分の持ち物を大事に使ってあげることができ、自分の持ち物を大事に使うことによって、自分を大事にすることができる。

 

周囲の人を大事にする

(1)人に見えるものは自分

 

私たちは人を責める時、あの人には「〇〇という悪い側面があるからダメだ」というように、相手の中に悪い側面を見出して相手を攻撃している。

 

あの人は無職だからダメだぽよ。

あの人は仕事でミスをするからダメだぽよ。

あの人は遅刻するからダメだぽよ。

あの人は怒るからダメだぽよ。

あの人は見栄を張るからダメだぽよ。

 

相手の悪いところを見出して相手を責め立てている時、私たちは自分には相手にあるような悪い側面は絶対にないという大前提に立って、相手をことを一切の手加減なく責め立てているが、果てして自分には、相手の中に見出している悪い側面はないだろうか、ということを考えてみる必要がある。

 

自分は絶対に無職にならないのかしらん。

自分は絶対に仕事でミスをすることはないのかしらん。

自分は絶対に遅刻することはないのかしらん。

自分は絶対に怒ることはないのかしらん。

自分は絶対に見栄を張ることはないからん。

 

すると、相手の中に見出している悪い側面が自分にもあるということに気がつく。

 

周囲に仕事でミスをする人がいたとして、その人のことをミスをするからといって否定していると、自分もミスをすることがあるのだから、自分がミスをした時に、自分が相手を否定していた分だけ、ミスをする自分を自分で否定して苦しみ、また周囲の人間も自分のことをダメだと思っていると思い込んでしまい、自分が苦しくなる。

 

相手に見える悪い側面は必ず自分にもある。

 

その相手の悪い側面を責めると、いつか自分も苦しむことになる。

 

逆に相手の悪い側面に寛容であるということは、自分の悪い側面に寛容であるということだ。

相手に寛容になることによって、自分にも寛容になることができる。

 

よって、自分を大事にするために、周囲の人には寛容である必要がある。

周囲の人を大事にすることによって、自分を大事にすることができるのであーる。

 

(2)人を認めるハードルを下げる

 

私たちはそれぞれ、人を認める基準をもっている。

 

そしてその基準は、平凡なものには価値を置いておらず、特別なものに価値を置いている。

 

朝起きて夜に起きる

顔を洗う

歯を磨く

食事を作る

洗濯をする

掃除をする

真面目に働く

体を洗う

 

このような平凡なものよりも、

 

高収入になる

高級車を手に入れる

高級住宅地に住む

有名な観光地に行く

エリートになる

高級なレストランで食事をする

有名になる

美女と遊びまくる

 

というような特別なことや特別なものに価値を置いている。

日常的なものよりも非日常的なものに価値を置いている。

 

そして、平凡な人のことは認めずに、稀有で特別な人のことしか認めない。

 

平凡なことをやっている人には価値がなく、非凡なことをやっている人だけに価値があると思っている。

 

だから自分が平凡であることに嫌気がさし、より稀有で特別な存在になろうと強迫的に努力することになる。

 

自分が人のことを認めるハードルが高すぎるので、なかなか人のことを認められず、その分だけ自分のことを認めることが難しくなり、自己嫌悪や自己否定に陥ってしまい、苦しくなる。

 

ここでの苦しみの原因は、「自分が稀有で特別な人間ではないから」ではなく、「自分が稀有で特別な人のことしか認めないから」だ。

 

逆に、人のことを認めるハードルを下げて、平凡な人のことを認められるようになれば、その分だけ自分で自分のことを認められるようになり、自己嫌悪や自己否定も減り、苦しみもなくなっていく。

 

大事な自分を苦しめないためには、周囲の平凡な人のことを気持ちよく認めていくことが必要になってくる。

 

(3)人のことを肯定していく

 

人の悪い側面を攻撃すると自分が苦しむことになり、人のことを認めないと自分が苦しむことになる。

 

つまり、人のことを否定することをやめれば、苦しみは減っていく。

 

そして、人のことを肯定していけば、心が穏やかになっていく。

 

ここでいう否定するというのは、

 

あんなやつは消えた方がいい

あんなやつはいなくなったほうがいい

あんなやつは苦しめてもいい

あんなやつは傷つけてもいい

あんなやつは無視してもいい

あんなやつはどうなってもいい

 

というような冷淡な気持ちを起こすことだ。

 

そして、ここでいう肯定するというのは、

 

あんなやつだけど、ここにいてもいい

あんなやつだけど、存在してもいい

 

というように存在を認めることだ。

 

私たちは「悪いものは消え去るべきだ」という根深い思想、悪を否定する思想を持っていて、その思想が自分が悪とみなした人への妬みや恨み、そして自分の悪の側面に対する嫌悪感や否定となり、苦しみを生み出している。

 

人の悪は悪としてそのまま認める。

しかし、悪いところがあるからといって相手の存在を消し去ろうとするのでもなく、相手の悪を正当化するのでもなく、悪いところがある相手の存在を寛容に肯定していく、悪いところがある相手の存在を許容していく必要がある。

 

どんな相手であってもその存在を認め、肯定していくことができれば、「悪いものは消え去るべきだ」という思想が薄まっていき、その分、自分の悪の側面を正当化したり、自分で否定したりすることがなくなるので、心が安心し、心が穏やかになっていく。

 

自分の心を自分で攻撃しないようになるために相手のことを肯定する、特に自分が嫌いな人のことを肯定することが必要なのであーる。

 

(4)他人を見下すための努力はしない

 

私たちは何らかの基準で他人を見下して優越感を得ることを幸福だと思い、ネバギバの精神で努力してしまうのだけれど、他人を見下すための努力は必ず苦しみを生むのでやめたほうがいい。

 

他人を見下して優越感を得るために、高収入になるための努力。

他人を見下して優越感を得るために、出世するための努力。

他人を見下して優越感を得るために、筋骨隆々になるための努力。

他人を見下して優越感を得るために、知性を手に入れようとする努力。

他人を見下して優越感を得るために、美貌を手に入れようとする努力。

他人を見下して優越感を得るために、恋人を手に入れようとする努力。

 

勘違いして欲しくないのだけれど、努力そのものは素晴らしい。

 

しかし、その目的となっているもの、そのモチベーションとなっているもの、その方向性が「他人を見下して優越感を得ること」であれば、それは必ず苦しみを生む。

 

それは、必死になって努力して手に入れたものというのは諸行無常の理によって必ず失われるからだ。

 

例えば、他人を見下して優越感を得るために高収入を得ようと努力している人というのは、収入を基準にして人のことを「価値のある人間」と「価値のない人間」というように分けて見ており、収入で自分の価値を規定しようとしている。

 

高収入であれば価値のある人間であり、低収入であれば価値のない人間である。

高収入になれば自分は価値のある人間になれる、低収入であれば価値のない人間のままだ。

高収入の価値のある自分のことは肯定できるが、低収入の価値のない自分のことは否定する。

このような価値観でその人は生きている。

 

この状態で、自分が低収入のままだと、自己否定により苦しむことになる。

 

また、仮に高収入を実現し一時的に優越感による高揚感を得られたとしても、自分を肯定し続けていくためには低収入にならないよう強迫的な努力をしていく必要があり、不安と緊張の中で過ごさなければならない。

 

また、自分よりも高収入の人を目の当たりにすると、優越感を得られなくなるので、自己嫌悪に陥ることになる。

 

そして諸行無常による想定外の出来事や病気や老いや死によって、自分を価値のある人間として規定してくれていた「高収入」というシンボルは骨抜きにされ最後は跡形もなく消え去り、最終的には自分の価値観の中で「高収入ではなくなった価値のない人間」になってしまう。

 

すると、これまでの努力が水泡に消えたという徒労感、そして高収入ではない自分に対する嫌悪感や自己否定により苦しむことになる。

 

繰り返すが、努力することそのものは素晴らしい。

しかし、その方向性が他人を見下して優越感を得ることにあるのであれば、それは最終的には大きな苦しみに転じてしまい、自分を大事にすることにならない。

 

言い換えると、他人を見下すための努力は自分を粗末にするための努力になってしまう。

 

では、どのような方向性の努力がいいのかしらん。

 

それはこれまで述べてきたような、自分を大事にする方向性、自分を肯定する方向性、自分を整える方向性、身の回りのものを大事にする方向性、周囲の人を大事にする方向性の努力だ。

 

私自身もこれまで人生の多くの時間と労力とお金を他人を見下すために費やしてきた。

 

他人を見下すための勉強

他人を見下すための運動

他人を見下すための読書

他人を見下すための労働

他人を見下すための旅行

他人を見下すための買い物

 

そこには一時的な高揚感はあるものの、安心と満足といった幸福はなく、息苦しかった。

 

他人を見下そうとすることは自分に苦しみを与えようとすることなのだから、その方向性に邁進してくと、苦しい結果になるのは当然だ。

 

そしてある時から、努力の方向性を他人を見下すことから自分を大事にすることに少しずつ切り替えていった。

 

自分を大事にするための勉強

自分を大事にするための運動

自分を大事にするための読書

自分を大事にするための労働

自分を大事にするための旅行

自分を大事にするための買い物

 

すると、不安や強迫観念が減り、平穏な日々になっていった。

 

自分を大事にするために大金や何か特別なことは必要ない。

心がけ一つで切り替えていくことができる。

 

むしろ、努力の方向性を自分を大事にする方向へ切り替えていくと、お金にも時間にも精神的にも余裕ができてくる。

 

この記事がこれまでの努力の方向性を見直すきっかけになれば幸いです。