立ち止まって考えてみれば、金銭、時間、歓心、名声など、人生における悲喜劇は「何かの奪い合い」から生まれることが分かる。そして奪い合いは限りある価値に対して発生する。価値がないものや限りなく創り出せるものは奪い合う必要がない。
岩尾俊兵『世界は経営でできている』
私たちは一人ひとりが違う世界の中に生きている。
同じ空間を共有しているので、同じ世界に生きているだろバーロー、とコナン風のツッコミが入るかもしれないが、私たちは物事を自分のフィルターを通してしか捉えることができず、それ故に同じ出来事でも個々人でその見え方が全く異なる、ということかわかるように一人ひとり違う世界に生きているということが言えるのであーる。
そして何かを奪い合うのは、「勝たないと認められない世界」「上でないと認められない世界」「足りない世界」の中に生きている人だ。
他人に勝ったり他人より上になるためには、平凡でありきたりなものではいけない。
何か特別なことを成し遂げたり、特別なものを所持する必要がある。
そして特別なことやものというのは数に限りがある。だから奪い合う必要がある。
「勝利」や「上」という幻想に執着している人には、世界は当然「価値のあるものが足りない世界」」に見えている。
だから足りない世界の中で、価値のあるものを奪い合い、いかに自分が価値のある人間なのかを証明しようとする。
そうすることが幸福としか思えないのであーる。
まぁ、それはそれでいいのだけれど、その手の幸福を実現するには、際限のない奪い合いに勝利するしかなく、しかも勝利し続ける必要がある。
そしてその過程において、不安や恐怖や強迫観念に苛まれ、諸行無常の理によって自分が価値のあると思っていた特別で希少なものは最終的には跡形もなく消え去り、そういった特別で希少なもので定義していた自分というものは何者でもなくなってしまう。
ここまで来るとそれが果たして幸福なのかという疑問が残る。
この手の世界、つまり、この手の思考パッターンにおける段違いな勘違いは2つある。
一つは「勝たないと認められない」「上でないと認められない」と思っていることで、別に全ての人が勝ち負けや上下で人のことを見ているわけではない。
勝ち負けや上下に関係なく、自分のことを認めてくれる人は認めてくれるし(そういう人はまた別の「世界」に生きているからな)、勝ち負けや上下に関係なく、自分のことを大事にしてくれる人は必ずいる。
「勝たないと認められない」「上でないと認められない」という価値観は、自分が人のことを勝ち負けや上下で判断しているからこそ生じている単なる幻想でしかないのである。
2つ目の段違いな勘違いは「特別なものにしか価値がない」というもので、実際は平凡なものでもとんでもなく価値があるものはいくらでもある。
例えば自分の心身を整えるためには以下のことが効果的だが、どれもやろうと思えば誰もがやれる平凡なことだ。
睡眠、食事、整理、掃除、運動、瞑想。
それらをやるに当たり、特別なものは一切必要ない。
平凡な部屋、平凡な布団があれば十分な睡眠は確保できる。
平凡な食材でバランスの取れた食事は用意することができる。
平凡なゴミ袋と平凡な掃除用品があれば整理と掃除は完了する。
平凡な器具とスポーツウェアがあれば運動はできる。
静かに座れる平凡なスペースがあれば瞑想はできる。
平凡で価値のあるものはとにかくたくさんあって、その辺に満ち溢れている。
しかも、価値があっても平凡であるが故にお金もかからない。
それがわかれば奪い合う必要はなくなる。
誰にも負けへんどと緊張して肩肘張ってガチムチにピリピリしながら生きる必要もなくなる。
だがしかーし、「足りない世界」にいると平凡なものの価値が見えない。世間的に特別なもの、世間的に希少なもの、高価なものしか目に入らない。平凡な人のことを認めることができない。だからこそ、平凡だと人から認められないと思い込んでしまい、特別な人間になろうと特別で希少なものを追いかけてしまう。
「足りない」という価値観は、自分が平凡なものの価値を見誤り、平凡なものを否定しているからこそ生じている幻想なのである。
「平凡」を舐めてはガチのムチでいけない。
手に入れよう思えば手に入り、やろうと思えばやることができて、しかも抜群に有益な「平凡」はいくらでもある。
そういう「平凡」に気がつくことができれば、もう安心だ。
世界はそういう「平凡」で溢れている。
世界は平凡でできている、と言っても過言ではない。
声出して切り替えていこう。