漱石の如きは四十二歳の時、
『小生はこれまで神仏など信じた事は無き之候。唯自分といふのだけを信じて暮して居り候。所が近頃その自分といふものがつくづく当にならぬことに気がつき申候。この上は何を信ずべく候』と述べた。後になって学者の間では『之こそ東洋哲学の道の自覚者だ』と云々した
辺見じゅん『収容所から来た遺書』
夏目漱石先輩クラスの規格外の知性をもってしても自分というものに確信が持てないのだけれど、おそらく知性なり賢さが一線を超えた人というのは、自分は間違っているのかもしれないという茫漠とした境地に居続けることができるのだろう。
それ故に、何かを探求し続けることができるし、柔軟に考えを改めることができる。
翻って、私のような脳髄ががらんどうのミリオン・アホンダラー・ベイビーは、自分は正しいという大前提に立ち、これさえやっておけば大丈V、これさえ持っておけば大丈V、と指でVの作った両腕を高々と掲げている。
自分はこうだから価値がある、自分はこうだから価値がない、あいつはああいうやつだから良いやつ、あいつはああいうやつだからダメなヤツというように、自分や他人のことを決めつけ、固定化し、自分勝手に判断し、自分にとって都合のいい自分/他人のことは肯定・称賛し、自分にとって都合の悪い自分/他人のことを否定・非難する。
自分は正しいという大前提の下、これが自分なんだとして定義し、自分を自分として定義してくれるものを人生の膨大な時間と労力とお金を注ぎ込んでかき集める。
自分は正しいという大前提の下、人はこうしてくれるものだ、ああなるものだと決めつけ、未来へのそうした決めつけが期待となり、自分の思い込みとは異なる現実がやってくると自分の正しさが否定されることになり、自分の正しさが否定されると、自分は正しいという前提で行なってきたきたすべての前提が揺らいでしまうため、その現実を受け止めきれずに感情が乱れ、怒りとなり、人を責め、おれは正しいんだ、お前が間違っているんだ、お前が悪いんだと喚き立てることになる。
自分は正しいという大前提の下、まだ起こってもいなことを起こるものと決めつけ、びっくんびっくん不安になる。
自分は正しいという大前提の下、今日は死なないと思い込み、死なないこと前提でどうでもいいことに時間を費やし続ける。しかし、そんな自分の思い込みとは関係なく、死というのはやってくる時はやってくる。
自分は正しいという大前提の下、自分は良いことをしているから悪いことは起こらないと思い込んで安心しているが、良いことをしていても都合の悪いことは起こる時は起こる。
良いことをすることと現実は関係がない。(地震、津波、事故、病気、虐殺、戦争、リストラ)
自分は正しいという大前提の下、必ずそうなるのにそうならないと思い込んでいる(老い、病気、死)。必ず失われてしまうものを失われないという前提でかき集める。
自分は正しいという大前提の下、本来違うものを同じだと思い込んでいる。
だから他人を支配しようとする。なんでこう感じないんだ、こう考えないんだ、こう捉えないんだと責め立て、喚き立てる。自分色に染め上げようとする。
おいどんは正しいんぽよ、あちしは正しいでやんす、という自惚れほど危ないものはないな。
自分の普段の行動はどういった種類の「自分の正しさ」に基づいているのかしらん。
それって本当に大丈夫なのかしらん。
それって諸行無常の理に対応できるものなのかしらん。
じっと考えていると、自分の人生の大前提が崩れそうでやばくなってきそうなので、今日は思考を停止させ、今日は死なないという大前提の下、18時間ほど惰眠を貪ろうと思う。
声出して切り替えていこうと思う。