おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

よく見下されていると感じる人

先日、職場の同僚A(50代男)と話していると、Aには嫌いな上司が複数人いるという。

 

どうして上司たちのことを嫌いなのかというと、彼らが自分を見下しているように感じるからだという。自分が見下されているように感じるという。

 

偶然、Aとそれらの上司たちは出身校が同じで、出身校という枠組みにおいて、Aは後輩、上司たちは先輩にあたる。

 

Aは、相手が自分がただ後輩というだけで見下してきていると感じ、マウントを取られていると感じ、自分が彼らより下の人間だと見なされていると感じていることに苦しんでいる。

 

Aは、おれはどちらが上とか下とかどうでもいい、だがマウントを取ってこようとされると腹が立つ、何ならおれの方が上である、なぜならおれのほうが博士号をもっていて奴らはもっていないからである、奴らはおれと話すと負けるからおれとあまり話そうとしないのだ、みたいなことも言っていた。

 

これらの発言から、おそらくAは優劣への執着が強い、勝ち負けへの執着が強い、上下への執着が強い、ということがわかる。

 

Aにとって、上司たちの心の中は絶対にわからない。またAは、自分を後輩だからといって見下していますよね、と上司たちに確認をとったわけでもない。にも関わらず、Aは自分が見下されていると感じている。会社の上司兼学校の先輩と相対したり、彼らを想像すると、Aには彼らが自分を見下しているように見えてしまう。

 

それはAが普段から人を見下しているからだ。何かにつけて人のできていないところを指摘し、一方で自分はそれができているということを感じたりアッピールしたりすることが多いからだ。

 

なぜそのようなことをするのかというと、何かができる人間でなければ価値がない、そして価値がない人間はここにいてはいけないと思っているからで、価値の自分が価値のない人間と見なした人に対して攻撃的な思いを起こしているからだ。

 

価値のない人間を否定する思いが強いからこそ、自分が価値のない人間と思われることが怖くなる。だからこそ、価値のない人間にならないように、価値のない人間だと人から思われないように、他人を見下したり、他人をあらを探して自分は価値のある人間だということを確認しようとする。

 

同僚Aには相手を通じて自分の姿が見えている。Aは自分が先輩になると後輩を見下す。Aは自分が上司になると部下を見下す。自分が人よりも何か価値のあるものを持っていると、それを根拠に人を見下す。だから、他人が何か価値のあるものを持っていると、それを持っていない自分は見下されているように「感じて」しまう。自分が後輩になったり、特定のポストでなかったりしたら自分が彼らから見下されているように「感じる」し、博士号という価値あるものを持っていれば、自分のほうが相手よりも上の存在であると「感じる」。

 

このように私たちは日頃の自分の思いや思考の習慣から、物事について自分で勝手に感じて、自分で勝手に感じたことによって苦しんでいる。私たちは物事をありのままに捉えることなく、勝手に思い込んで勝手に決めつけて苦しんでいる。私たちは物事のありのままに捉えることはできない。

 

Aには、「Aさんが苦しんでいるのは、Aさんがそもそも人を見下すことを習慣にしているからです。人を見下すと何よりも自分が苦しむのでやめたほうがいいです。逆に、人を楽勝で認めていく、肯定する方向にシフトしていったほうが自分にとって有益ですよ」みたいな感じのニュアンス的なことを伝えたいのだけれど、自分のことを価値のある人間、上下を気にしない善良な人間と信じ込んでいる人に「あなたには人を見下すところがある」と伝えると、気分を害して心を閉じてしまう可能性もあるので、そう簡単に直接的には伝えられない。

 

それはそれで仕方がない。

 

Aさんに他人を見下すところがあるからといって、それを理由に私がAさんを否定していたら私がAさんの二の舞いになってしまう。私自身にも他人を見下す冷淡な部分はあるのだから(見下すのは良くないとわかっていてもどうしても見下してしまっている)、Aさんを否定するということは自分を否定し自分を苦しめる選択をするということになる。

 

確かにAさんには他人を見下すところがあるだろうが、それだけがAさんの全てではない。詳細は割愛するが、Aさんには良いところがたくさんある。その中には平凡だけれど良いところと言える点もたくさん含まれている。Aさんの平凡だけれど良いところというのは、それが平凡であるが故に自分にも同様の点があることが多い。ということは、Aさんの平凡だけれど良いところに価値を見出し肯定することによって、自分の平凡な部分にも価値を見出すことができ、自分を肯定することができる。

 

私たちは他人を通じて自分を見ているので、他人を平凡なことで肯定できると自分のことも平凡なことで肯定できるようになる。

 

平凡なことで自分や他人を肯定できるようになると、世間一般の不特定多数の人から価値があるとされている特別なものの有無はどうでもよくなってくる(博士号の有無や上司のポストはどうでもよくなってくる。無論、それらの学位や地位には価値はあるが、自分を肯定するためには不要になってくる)。そういう特別なものがなくても自分を肯定できるからだ。

 

Aさんの特別なものへの執着が薄れていくことを切に願う。