自閉症の人は、ある種の現実の問題に無とんちゃくになる。こういう人は文字どおり「自分だけの世界」に生きており、その世界の中で自分が最高の存在として君臨している。
自閉症の究極の姿がナルシシズムである。完全なナルシシストにとっては、他人は心理的実在ではなく、一個の家具にすぎない。(中略)シャーリーンが、「私はほんとうに先生を愛している」と信じていたことに疑いはないが、しかし、彼女の「愛」はすべて彼女の頭のなかだけのものである。客観的な現実としては存在していないものである。彼女自身にとっては、彼女は「人々の光」であり、彼女の行くところ、いたるところに喜びと幸せを発散させていることになっている。しかし、私をはじめ他人が彼女との関係において経験していることは、彼女が行く先々にきまって残していく、いらいらさせられる混乱と困惑だけである。
M・スコット・ペック『平気でうそをつく人たち』
私たちは一人一宇宙であって、自らの心の世界に閉じ込められ、その中でさまざまな影像を作り出し、それらに縛られて悩み苦しんでいます。すべては心というキャンバスの上に描き出された絵であり、あるいはプロジェクターによって投影された映像のようなものであり、すべては夢のような存在です。いや、夢のような存在ではなく、夢そのものであります。
しかし、凡夫である私たちはそれを夢と気づかず、「自分」が、「もの」が厳としてあると考え、それらに執着して苦しみ迷っています。
横山紘一『唯識の思想』
私たちは「自分は物事をありのままに見ている」と段違いな勘違いをして生きているのだけれど、実際、私たちは自分の心を通じて物事を見ていて、自分の心が純度100%の透明ではないために、必ず物事を歪めて捉えてしまう。
無色透明な現実とどうしようもなく自分の色が加わった認識、この両者には必ずギャップが生じる。
それ故に1つの同じ物事でも一人ひとり捉え方が異なるし、みんながそれぞれの形で間違っているということも、間違っていないということもあり得る。
これは人それぞれ心の純度が異なるため仕方がない。
(そして純度100%の透明度を誇る心のフィルターの持ち主はいない)
誰もが自分の心、認識を通じてしか物事を把握できないということは、「私たちは一人一宇宙であって、自らの心の世界に閉じ込められ」ているということであり、これはつまり、私たちはみんな自閉的と言ってもいいかもしれない。
あちしたちは、現実を自分の心のフィルターを通して捉えている。
おいどんたちは、フィルター越しの色付けされ、実際のものから大なり小なり歪められた影像を見ている。
そういった影像で自分の世界が形成されている。
だから同じ空間を共有しているように見えて、一人ひとり異なる影像世界の中に閉じ込められて生きている。
みたいな感じのニュアンス的な雰囲気っぽいスタンス風の意味で、私たちはみんな自閉的と言えるかもしれない。
問題なのは、自分の捉え方には必ず歪みが入っているということを自覚することなく、自分の捉え方を絶対視し、現実を無視してしまうことだ。
無色透明な現実世界があり、それを自分なりに歪めたイッメージの中に自分がいるにも関わらず、自分が勝手に作り上げたイッメージを紛れもない現実、真実だと思い込んでしまう。
(確かにそれは自分にとっては現実だし真実なのだけれど、それは万人と楽勝で共有できるものでは決してない。)
自分には「そのように見える」ものでしかないのに、それが「そうである」になってしまう。
自分は愛の塊であり、愛を振りまいている。
そしてその愛によって周囲の人びとは幸せと喜びに溢れている。
自分は善良さの塊であり、善を振りまいている。
そしてその善によって世界は必ず良くなっていく。
自分は正しさの塊であり、私の言うこと為すことは全て正しい。
そしてその正しさによって世界は必ず良くなっていく。
それは当の本人のイッメージの中ではそうなのだろうけれど、イッメージの外側、自分の心をフィルターの外側、つまり現実世界では全然そうではない。
むしろ、愛や善や正しさという名の下に、人びとを苛立たせ、困惑させているだけというようなことはよくある。
人のことはよくみえても、自分自身がイッメージと現実を区別できずに、自分にとって都合の良いイッメージにガチムチで取り込まれて、現実を無視している可能性を想像できていないということはよくある。
繰り返すが、物事を歪んだイッメージとして捉えてしまうのは仕方がない。
しかし、それはあくまでも自分がどうしようなく勝手に作り出しているイッメージに過ぎない、ただただ自分にはそう見えているものでしかない。
よって「とはいっても、真相はよくわからないんだけどね、テヘペロ」という自覚なり留保なり遊びなり余裕なりスッペースなりが必要になってくる。
その種の自覚がなければ、私たちは世界を自分の歪んだイッメージどおりに固定化して捉えてしまう。
目の前の現実や人や自分の感情を無視した状態で生きていくことになる。
「自分は『人々の光』なんだ」という思い込みどおりに世界を捉え、目の前の人の反応、感情、思い、表情が見えなくなる。そして自分自身の内側にも「人々の光」というイッメージからは程遠い感情や思いがあり、それらがわき起こってきているにも関わらず、そういった本当の自分の感情や思いが見えなくなってしまう。
よって、自閉度の高い人、つまりナルシストの人は、他人のことを1個の家具のようにしか捉えることができない。他人だけではなく自分さえも1個の家具のようにしか捉えることができない。
世界を自分のイッメージどおりに固定的に捉えているからこそ、他人のことも自分のことも捉えてしまい、他人や自分を多様で自由な感情のある存在と捉えることができない。
たとえ現実が見えたととしても、自分のイッメージを見直して現実に寄せていくのではなく、現実を歪めて自分のイッメージに沿うように解釈してしまう。
だから独善的になり得てしまう。
もう何を言っても誰の声も届かなくなる。
ずっと現実離れした自分のイッメージの中で過ごすことになる。
そして人が離れていく、身の回りで現実的な問題が頻発する。
自分は正しいんだ、おかしいのはあいつらなんだ、社会なんだ、世界なんだ、と延々と他者や世界を呪詛し、ネガティブな思いを生み出し続け、そのネガティブな思いが自分を実質的に苦しめ続ける。
私たちは物事をありのままに見ているわけではないという事実。
私たちは多かれ少なかれ歪んだ解釈を自分の世界として生きているという事実。
この事実はどうしようもなくそうなのだからどうしようもない。
どうしようもないことなのだから、この事実に沿って生きていくしかない。
よってこの事実を蔑ろにし無視し続けた時、先に述べた苦しみの深みにはまっていくことになる。
だからと言って、自分の物事の捉え方は絶対に間違っている、と思い込むこともまた間違いだろう。
いくら脳髄がアッパラッパラッパーでミリオン・アホンダラー・ベイビーの私であっても、現実を現実通り捉えていることもあればそうでないこともある、自分の見方には現実に沿っていない可能性が普通にある、という自覚、つまり凡人としての自覚があれば多くの対立や悲劇や問題や苦しみを回避できるではないかしらん。
自分は今どのような物事の捉え方の中で生きているのか、どのような解釈の中で生きているのか、どのような思い込みの中で生きているのか、どのような幻想の中で生きているのか、どのような妄想の中で生きているのか。(自分の物事の捉え方、解釈、思い込み、幻想、妄想は自分にとっては現実だが、他人にとっては幻想でしかない)
結局私たちはそういった自分の世界の中でしか生きることができない。
そしてその世界のあり方は全て自分次第だということがわかる。
自分が作り出す世界が苦しみをもたらすものなのか、喜びをもたらすものなのか。
自分の世界が自分次第なのであれば、苦しみも喜びも自分が作り出すものということになる。
だけれど、どうしても私たちは自分の物事の捉え方=自分の世界ではなく、現実的な物事、人が自分をどう扱ってくれるかどうかが幸福をもたらすものだと思ってしまう。
よーし今日も自分の正しさを証明するために職場で相手を論破し、相手を踏みつけ、相手を見下し、「価値のある自分」ということを他人に認めさせ、他人から大事にしてもらえるように頑張るぞい☆
いや、やめておこう。
自分が苦しむだけや。
声出して切り替えていこうと思う。