また君達はどんなに辛い日があらうとも、人類の文化創造に参加し、人類の幸福を増進するといふ進歩的な思想を忘れてはならぬ。偏頗で矯激な思想に迷ってはならぬ。どこまでも真面目な、人道に基づく自由、博愛、幸福、正義の道を進んで呉れ。
最後に勝つものは道義であり、誠であり、まごころである。友だちと交際する場合にも、社会的に活動する場合にも、生活のあらゆる部面において、この言葉を忘れてはならぬぞ。
人の世話にはつとめてならず、人に対する世話は進んでせよ。但し、無意味な虚栄はよせ。人間は結局自分一人の他に頼るべきものが無い――という覚悟で、強い能力のある人間になれ。自分を鍛えて行け! 精神も肉体も鍛へて、健康にすることだ。強くなれ。自覚ある立派な人間になれ。
辺見じゅん『収容所から来た遺書』
すさまじく激アツな文章だが、ゴータマ・シッダールタ先輩やキリスト先輩を始めとする異次元の賢者達はだいたいこのようなことを言うわけだから、やはり時間がかかっても自称大人が目指すべき方向性としてはこんな感じのニュアンス的な雰囲気のものなのだろう。
「最後に勝つものは道義であり、誠であり、まごころである」
この「勝つ」ということは優越感的な勝利、他人を見下してほくそ笑むような種類の勝利ではなく、平穏な気持ちなることや穏やかな気持ちになることや和やかな気持ちになることや温かい気持ちになることを意味しているように思える。
そういう意味でなければ、優越感を求めて偏頗で矯激な思想に迷ってしまうし(他人を否定することによって優越感を得られるが、他人を否定するには偏頗で矯激な思想が必要にになる)、人の世話になろうとするばかりになるし(私たちが人生を賭してでも優越感を求めるのは「価値のある人間」として認められれば、多くの人から大事にしてもらえる、世話をしてもらえる、チヤホヤしてもらえると思ってしまうからで、要するに寂しいからだ)、無意味な虚栄に走ってしまうだろうからな。
道義というのは、この世の真理や原理原則を「物差し」にするということだろう。
私たち自称大人は「自分は正しい」という大前提に立ち、自分の正しさを物差しにして、物事を決めつけたり、誤った判断をして、誤った行動をして、その結果苦しみ、その苦しみの原因を他人のせいにして、他人を責める、ネットで罵詈雑言を書き連ねる、ということを繰り返している(「自分は正しい」ので都合が悪いことの原因は常に「間違っている他人」ということになる)。
しかし、「自分の思い込みによる自分の正しさ」あるいは「自分の正しさによる思い込み」とは関係なく、この世には真理なり原理原則というものが実際に厳然とある。
(真理や原理原則というのは、例えば、自分は必ず死ぬ、何を手に入れても最後には置いていくことになる、自分の手元を離れていく、自分の時間や労力は有限、人や自分を大事にすると喜びが生じる、人や自分を粗末にすると苦しみが生じる、他人は自分ではない、ものは自分ではない、大事にしないとそのものはすぐに失われる、というようなもので、至極当たり前のことだ)
自分は正しいという前提に立ち、自分に都合の良いように物事を解釈し、その結果できあがる「自分がやることなすこと全てを正当化したもの」を物差しにするのではなく、自分ではない真理や原理原則を物差しにする。
すると、正当化できない分だけ、つまり自分の都合の良いように物差しを捻じ曲げられない分だけ、自分の至らなさというのが否応なくガチムチに浮かび上がってくる。
そうして、自分の都合の良いように捻じ曲げられることのない確固たる物差しによって浮かび上がってきた不完全な自分、不甲斐ない自分、悪の自分をきちんと見ること。真実や原理原則を自分や自分の言動に当てはめ、自分を物差しに対して忠実に見つめること。これが「誠」と呼ばれる。
私たちは悪や都合の悪いものや価値のないものは当然責め立て、苦しめても良いという懲罰思想なるものをガチムチに持っているため、真実や原理原則に照らして自分を見ると、真実や原理原則から逸れまくっている悪の自分が見えて、そこに持ち前の伝家の宝刀の懲罰思想が作用し、自己否定が始まり苦しくなってくる。そして苦しいために、他人のせいにしたり、自分を無視するために非日常的な強い刺激で自分を誤魔化そうとする(そうした怒りや欲のために人生の膨大な時間と労力を費やす)。
こういった懲罰思想から離れて、物差しからズレてる悪を責めないこと、悪に対して寛容になること(悪を推奨したり、正当化することではない)、受け入れること、憐れむこと(真理や原理原則からズレていると必ず苦しむことになるためその苦しみに対して憐れむことができる)、温かく接すること、これが「まごころ」ということになる。
厳然たる真理や原理原則という物差し=道義
真理や原理原則に沿って忠実に自分や物事を見ること=誠
真理や原理原則からズレている悪を責めずに寛容であること=まごころ
みたいな感じのニュアンス的な雰囲気の整理になるのだろう。
この3つがきちんとできたら、あとはもう自然と精神的に向上することになり、勝手に心は穏やかになり、和やかになり、温かくなっていく。
自分は正しいんだという自惚れ
自分は真理なり原理原則を知っているんだという自惚れ
悪は苦しめても良いんだという懲罰思想
これらをいかに捨てていけるかということが重要になっていく。
んじゃあ、それらを捨てるためにどうすればいいのかしらん。
自分や自分の日常をしかと観察すること、これに尽きる。
日常においては自分の想定外のこと、自分の思い通りにいかないことがたくさん起こる。
なぜか。
それは自分が正しくないからだ。
自分の正しさに基づいた想定なり期待なり思い込みが間違っているからだ。
日常においては、不安や恐怖や強迫観念に囚われることがある。
なぜか。
それは自分が真理なり原理原則を知らず、正当な理由があれば自分なり人を責め立ててフルボッコにしてもいいんだという懲罰思想を持っているからだ。自分の正しさが本物であれば、物事は解決し、不安や恐怖や強迫観念が希薄になっていき、無縁になっていくはずなのだけれど、そうでないとしたら、やっぱり大事なことを知らないし、間違ったことをやっているということになる。
自分はどういった前提のもとに何をやっているのか。
それは自惚れと懲罰思想が前提ではないか。
そうだとしたら、持ち前の自惚れと懲罰思想によって本当に穏やかで和やかな気持ちになっているのか。
このような自問をしていくとヤバい自分に気が付き、ヤバい自分を見たくないので、ヤバい自分を誤魔化すために、惰性ネットに1日19時間を投じようと思う。
声出して切り替えていこうと思う。