おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

自分が外道かどうか

精神的に最も健全かつ最も高い域に到達している人が、普通の人が経験する以上の苦悩に苦しむことを要求されることは多い。偉大な指導者というものは、賢明かつ正しい人間であるならば、普通の人間にははかり知ることのできない高度の苦悩に耐えていることが多いものである。これとは逆に、情動的病の根底にあるのが、通常は、情動的苦痛の回避である。憂うつ、疑い、混乱、失望といったものを完全に経験する人間が、安定、満足、自己充足した人間よりはるかに健全だということもありうる。というより、病気とは、苦痛を受け入れるよりも苦痛を拒否することだ、と定義するほうがより当を得ていると言うことができる。

 邪悪な人間は、自責の念――つまり、自分の罪、不当性、欠陥にたいする苦痛を伴った認識――に苦しむことを拒否し、投影や罪の転嫁によって自分の苦痛を他人に負わせる。自分自身が苦しむ代わりに、他人を苦しめるのである。

M・スコット・ペック『平気でうそをつく人たち』

 

精神的に健全で成熟している人の苦しみというのは、自分の不完全性や悪の側面と向き合い続ける際に生じる苦痛で、自分の注意は常に自分の内側に向き続けている。

 

これまで「これが自分であると信じ思い込んでいた「きれいな自分」というイッメージ」は幻想であるということが突き付けられ、見せつけられ、自己否定をやめて現実の自分を受け入れきるまで、その手の苦痛は続くことになる。

 

私たちは悪に対する懲罰思想にガチムチに毒されており、自分の悪の側面をついつい攻撃してしまうため、悪を悪として認識しても、その時点で自分の攻撃性にブレーキをかけることがなかなかできない。どうしても自分の悪の側面を簡単には受け入れられず、攻撃してしまい、だから、やはり自分の悪と向き合うのは辛いし苦しい。

 

「憂うつ、疑い、混乱、失望」を味わうことも当然ある。

 

だけれど、自分の内面にしかと目を向け、悪を悪として認識し、その上で悪に対する攻撃をやめられるようにならない限り(これが悪を受け入れるということだ)、自己否定は続き、それに伴い苦しみは根本的に解消されることなく延々と続くことになる。

 

その手の苦痛を経た上で、最終的には完全に自分の悪を受け入れきることができるようになり、真の「安定、満足、自己充足」というものが実現されることになる。

 

一方で、精神的に病的で未成熟な人は、自分の不完全性や悪の側面と向き合うことを徹底的に拒否する。

 

自分が自分だと思い込んでいる「きれいな自分」というセルフイッメージにガチムチに固執し、そのイッメージが崩れることを絶対的に拒否する。

 

自分の内面にしかと目を向け、悪を悪として認識し、自分が自分だと信じていたイッメージが崩れていく辛さ、自分が自分を否定してしまうことによる苦しみを拒否し、一貫しておれっちは完璧な自分、あちしは善良な自分という思い込みの中にとどまり続けようとする。

 

自分の苦しみは、自分の悪の側面を責めるという悪によって生じているにも関わらず、他人が悪いから生じているとして他人を責め立て、そうすることによって完璧で善良な人間というイッメージにしがみつこうとする。

 

すると、自分の悪を直視し受け入れていく際に生じる苦痛を避けることができ、きれいな自分というイッメージに安住することができるため、とりあえずの「安定、満足、自己充足」感を味わうことができるが、それは他人を悪とみなし、馬鹿にし、見下し、責め立て、全能感を感じている間だけであり、あるいは刺激的な非日常で見たくない自分をかき消している間だけであり、それらは所詮、一時的な誤魔化しでしかない。根本的な苦痛の解消は一向に進まない。

 

だから私たちは、他人を悪者にして馬鹿にして見下して責め立てることに夢中になるか(世間的価値をかき集めて、その世間的価値を根拠にして他人を見下すことに夢中になるか)、刺激的な非日常を夢見て、非日常に逃避することに夢中になる。自分の内面に注意を向けるようなことはなく、自分の注意は常に自分の外に向いている。

 

この誤魔化しは「怒り」と「貪欲」であり、仏教で言うところの煩悩に当たる。

 

自分のきれいなセルフイッメージが崩れそうになると怒り狂い、人や自分を責める。

自分のきれいなセルフイッメージとは異なる自分の側面を見ないようするために刺激を貪る。

 

怒りで自分にとって都合の悪いものを追い払い、貪欲で自分に都合の都合の悪いものをかき消しても、再び何かの縁で同様の苦痛がもたらされ続けることになる。

 

苦しみを根本的に解決するには自分の内側に目を向け、正当化することなく全てを受容していく必要がある。

 

だから仏教は内面に目を向けることを勧め、自らを「内道」と呼び、自分の外側に苦しみの根本原因を求めるものを「外道」と呼ぶ。

 

なるほど。

 

ちゅうことは、おれっちは晴れて「外道」ということか。

おれっちは年齢的には18才を楽勝で超過しているけれど、所詮は自称大人であり、精神的には病的で未成熟ってことか。

 

いやー、まいった。

まじ?

まじでじま?

 

ほーん。なるほどね。なるほど。

 

よーし、こうなったら散財だ。

 

使わないものであっても買いまくり、持ち物の量と質とブランド名を根拠に自分の価値を規定し、他人を見下し、自分は価値のある人間なんだと悦に浸り、自分にとって都合の悪い自分の外道的な側面をかき消して見ないようにしよう。

 

って、それこそ外道ですやん。

 

よーし、こうなったらワイドショーだ。

 

人の悪を見て、画面越しに怒りをぶつけ、おれは善人なんだと悦に浸り、自分にとって都合の悪い自分の外道的な側面をかき消して見ないようにしよう。

 

って、それこそ外道ですやん。

 

よーし、こうなったら……

(以下、誤魔化しの外道的無限ループを驀進)

 

声出して切り替えていこうと思う。