おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

日々の苦しみの利用方法

世界にはびこる苦しみや悲しみの半分以上は、自尊心に対する些細な攻撃や侮辱を受けたり、虚栄心を傷つけられたりすることがきっかけで生まれているのだ

D.カーネギー『道は開ける』

 

ここで言う「自尊心」や「虚栄心」というのは、自分が「自分はこうでなければならない」としているセルフイッメージ、「自分はこういう人間だ」としているセルフイッメージのことだ。

 

私たちは自分のことを「こういう人間だ」と固定化して捉えている。

そして基本的に自分のことを「善人」として固定的に捉えている。

 

人それぞれ個別に善悪の基準みたいか感じのニュアンス的な雰囲気っぽいものを持っていて、その中の「善」に該当する要素のみで自分は構成されていると思い込んでいる。

 

善良な自分

優秀な自分

偉い自分

できる自分

強い自分

正直な自分

正しい自分

清らかな自分

優しい自分

価値のある自分

 

というように「善人」に該当するイッメージは色々とあるけれど、とにかく私たちは自分自身のことをそういう「善人」として固定的に捉えている。

 

しかし、その固定的な捉え方というのはあくまでも自分の思い込みであり、自分が信じたいように信じているだけであり、自分の都合の良いように自分のことを解釈しているだけであり、その認識は実際の自分、現実の自分とは大きくかけ離れている場合が多い。

 

(現実を見ることなく、自分のことを現実からかけ離れた善のイッメージとして捉えていること、思い込んでいることを自尊心と呼び、自分のことを現実からかけ離れたイッメージとして捉えようとすること、見せようとすることを虚栄心と呼ぶのかもしれない)

 

自分は自分のことを「善良な人間」であると思い込んでいたのに、何かの縁で、そのセルフイッメージとは異なる感情がわき起こってくる、あるいは他人からそのイッメージどおりに見てもらえない、というようなことが起こる。

 

そして私たちはその思い込みと現実とのギャップにショックを受け、それが苦しみを引き起こす。

 

私は善良な人間だと思い込んでいたところに、善良ではない自分の側面を見せつけられるのだからそりゃあショックでござんしょう

 

そして自分のことを「善良な自分」と思い込んでいるが故に、見たくない現実の自分の側面が立ち現れると、こんなの自分ではないでごわす、自分はもっときれいな人間でごわす、と即座にそれを攻撃して否定する。

 

自分の悪を否定することによって、あくまでも自分は善なのだ、というところに立とうとする。

 

現実離れしたセルフイッメージに固執し、そのイッメージを守ろうとするが故に、そのイッメージにとって都合の悪い自分の側面を認めようとせず、否定して抹殺しようとする。そのイッメージにとって都合の悪い自分の側面を見せつけてくる相手の存在を認めようとせず、否定して抹殺しようとする。

 

この作用が自己否定という形で自分に苦しみや悲しみをもたらし(最悪の場合は鬱や自殺という結果を招き)、他者否定という形で誹謗中傷や喧嘩や戦争という苦しみや悲しみを生み出す。

 

セルフイッメージと実際の自分とのギャップがあるからこそ苦しみや悲しみが生じるのだから、その両者のギャップをなくしていけばいい。

 

そのためにはまず自分がどのようなセルフイッメージに固執しているのかを把握する必要がある。

 

そのために日常の自然発生的な苦しみを利用する。

 

例えば、ある人に馬鹿と言われたとする。

コナン風に「バーロー」と言われたとする。

 

その時に苦しみが生じ、怒りが生じ、相手を攻撃しようとしたとする。

 

ということは、その時に自分が悪とみなしているものが見えたはずだ。

それは「馬鹿であること」かもしれない、あるいは「人を馬鹿にすること」かもしれない。

 

よくよく考えると、自分に馬鹿な部分もあるし、人を馬鹿にする側面もある。それらは悪だ。そういう側面が間違いなく自分の中にある。それを十分に受け入れていれば、自己否定も生じないわけだから苦しみも生じない。

 

男であることを受け入れている人間が「あなたは男だ」と言われても何の苦しみも生じないように、自分の悪の側面を受け入れていると自分の悪の側面を見せられても何の苦しみも生じない(反省は生じるかもしれない)。

 

逆に苦しみが生じているということは、自己否定が生じているということで、自分に愚かな側面があるということを認めようとせずにその側面を攻撃しているということで、人を馬鹿にする側面があるということを認めようとせずにその側面を攻撃しようとしているということで、つまり、自分はそういう側面がない「賢い人間」「清廉潔白な人間」と思い込もうとしてる、つまり自分は「賢い人間」「清廉潔白な人間」というセルフイッメージを固執していて、そのイッメージを必死に守ろうとしているということになる。

 

苦しみをきっかけにして、自分が否定しているもの(悪の側面、悪の部分)を知ることができる。

 

そして自分はそれらを否定し、攻撃することによってどのような自分というものを感じようとしているのか、と考えることによって、自分が執着しているセルフイッメージを知ることができる。

 

果たして自分は100%セルフイッメージ通りの完璧で善良な人間なのか。自分が嫌悪感を覚え、否定している側面や部分は果たして本当に自分の中にないのか。

 

というように、苦しみというのは確かにだるいが、自分が固執しているイッメージ、自分がまだ受け入れきれていない自分の現実を教えてくれるものでもある。

 

このように苦しみを、他人を見下したり攻撃するための起爆剤としてではなく、自分を分析していく手段として活用していけば、自己分析が進み、自分の不完全性や悪を少しずつ受け入れていけるようになり、受け入れた分だけ自己否定による苦しみが減り、自分や他人に寛容になることができ、その分だけ自分の心身や人間関係や日常生活全般が整うようになる。

 

そのためには積極的に苦しみを求める苦行のような日々を送る必要はなく、普段通りの日常の中で生じる苦しみに目を向ければいい。

 

声出して切り替えていこうと思う。