おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

どうして悪は光を嫌うのか

この種の人間は、治療によって自分の心に光を当てられることをなんとしても避けようとするものである。

 

自分自身を照らしだす光や自身の良心の声から永久に逃れつづけようとするこの種の人間は、人間のなかでも最もおびえている人間である。彼らは、真の恐怖のなかに人生を送っている。彼らを地獄に送りこむ必要はない。すでに彼らは地獄にいるからである。

 

邪悪な人たちの特性となっているのは、本質的には、そうした人たちの罪悪そのものではない。彼らの罪悪の名状しがたさ、その持続性、その一貫性である。これは、邪悪な人たちの中核的な欠陥が、罪悪そのものにではなく、自分の罪悪を認めることを拒否することにあるからである。

M・スコット・ペック『平気でうそをつく人たち』

 

よく見るゲームやマンガの構造に「光」対「闇」がある。

光は正義を象徴し、闇は悪を象徴し、両陣営がバトルを繰り広げていく、みたいな感じのニュアンス的な雰囲気の構造。

 

基本的に悪の勢力というのは光を嫌う。

 

どうして悪は光を嫌うのかというと、それは光が自分の醜い姿(悪の姿)を見せつけてきて、悪は自分のことを「きれいな存在」だと思っているために、その醜さを受け入れきれず自己否定してしまい、苦しむことになるからだ。

 

それは自分の中の「醜さ」によって苦しむのではなく、「きれいな自分」という「自分が自分だと信じたいイッメージ」「自分が自分だと思い込みたいイッメージ」「自分はこうでなければならないというイッメージ」に執着し、現実の己の醜さを否定し攻撃するから苦しむことになる。

 

だから悪は「見たくない自分を見せてくるものや人」=「光」を嫌い、遠ざける。

自分が嫌いなものや人というのは、そのもの自体やその人自体が悪いのではなく、そのものやその人によって自分が見たくない自分の側面が見せつけられるから、見たくない自分の側面を否定し苦しくなり、あるものやある人を嫌いになり遠ざけることになる。

 

真に善良な人間というのは全くもって悪の側面がない存在ではなく、悪の側面は厳然としてあるのだけれど、自分の中の悪の側面を正当化することなく悪を悪として受け入れており、それが悪だからといって、それを責めたり攻撃したり否定したりすることのない人間のことをいうのかもしれない。

 

自分の中の悪の側面を正当化することなく受け入れている責めないからこそ、真に善良な人間というのは他人の悪を責めることがない。

 

相手の悪を悪として認識し、自分にも同じところがあるなー、これで終わりだ。

 

しかし一方で邪悪な人間というのは自分を「きれいな人間」「清廉潔白な人間」とガチガチに思い込み、自分の中の悪の側面を、それが悪であるが故に、それを攻めたり攻撃したり否定したりする人間のことをいうのかもしれない。

 

自分の中の悪を常日頃から否定し攻撃し無視しているからこそ、邪悪な人間というのは他人の悪を徹底的に責める。

 

そこには悪は責めるべきもの、傷つけるべきもの、苦しめるべきものという思考パッターンがある。

 

自分が悪とみなしたものを徹底的に責めるために、自分が悪と見なされると徹底的に責められると思ってしまう。だから他人からどう見られているのかがものすごく気になる。不安になる、恐怖を感じる。他人から悪を見なされないことが至上命題になる。

 

その不安や恐怖から逃れるために、自分は悪ではなく善良な人間なんだ、きれいな人間なんだ、できる人間なんだ、清廉潔白な人間なんだ、優秀な人間なんだ、偉大な人間なんだ、というイッメージを強迫的にアッピールする、証明しようとする。

 

自分の善良さを証明するために他人を責めまくる。

(責めている間は自分は善良であるというところに立つことができる)

 

このように邪悪な人間、つまり現実離れした自分のきれいなイッメージに執着し、自分を責め、他人を責めることが多い人間は、自己否定により苦しみ、他人からの悪と思われないかどうか、他人から善人や価値のある人間としてきちんと認識されているかどうかに囚われ日々びっくんびっくん怯えて暮らしている。

 

つまり邪悪な人間は自己否定や不安や恐怖や強迫観念によって苦しんでいる。しかもそれらは他人がもたらしたものではなく、「悪を責めることは善、悪を傷つけることは善、悪を苦しめることは善」という懲罰的な思考パッターンにより自分自身が生み出したものであり、今も生み出し続けている。彼らは苦しみの無限ループにいる、すなわち地獄にいるということになる。

 

(地獄というのは血の池地獄のような物理的な空間ではなく、「悪人は血の地獄に落ちて苦しんでしまえばいいのだ」という自分の懲罰的な思考パッターンからもたらされる苦しみの無限ループのことをいう)

 

このようなことを書いたり読んだりすると、いやー、邪悪な人間は大変どすなー、私は邪悪な人間じゃなくてよかったどす、と自分の邪悪性を見たくないばかりにどうしても他人事として捉えようとしてしまうのだけれど、果たして本当に自分の中には悪(自分が悪とみなしたありとあらゆるもの)を責める側面はないのか、悪を馬鹿にする側面はないのか、悪を見下す側面はないのか、悪を攻撃する側面はないのか、悪を粗末にする側面はないのか。きれいな自分、善良な自分、清廉潔白な自分、物事がわかっている自分、正しい自分、偉大な自分、有能な自分、という現実離れしたセルフイッメージに執着している側面はなのか。

 

他人がどうなのかはワケワカメだが、少なくとも私にはそのような悪の側面が自分の中にあることを宣言しておこう。

 

そしてそのように「私は自分の悪の側面があることを認めようとしている人間なんだ」ということをアッピールしようとしている自分がいることも宣言しておこう。

 

そしてそんな自分を俯瞰的に見ることができている自分をアッピールしようとしている自分がいることも宣言しておこう。

 

そしてそんな自分をも俯瞰的に・・・(以下無限に続く)

 

自惚れと俯瞰の無限ループ。

 

声出して切り替えていこう。