おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

誤魔化しに気づいた上で誤魔化す

別居している夫とのことで沈むような出来事が起きてもいた。それは黒いしみのように心の中に広がり、心の中に流れていた楽しい音楽を消していく。またにぎやかな世界にするためには、詰め込んで詰め込んで、楽しいことの濃度を上げていくしかない。上から塗りつぶすように楽しさを積み上げていく。夫婦の問題に引き戻されて立っていられなくなりそうになっても、もうひとつの世界でどんどん新しい世界を吸収し、元気にしている明るい残像が自分を支えた。

 向き合うべきことに向き合わずに、楽しいことだけやって逃げてるだけだろ、こんなの、と、自分の声が後ろから追いかけてくる。

 だけど、逃げ道がなかったらどうやって生きていけるというのだろう。

花田菜々子『出会い系サイトで70人と実際に会ってその人に合いそうな本をすすめまくった1年間のこと』

 

自分にとって何か不都合な出来事が起こった時にどうして苦しいのかというと、その出来事をきっかけに受け入れたくない自分の側面が見え、その側面を受け入れられずに攻撃して否定してしまうからだ。

 

例えば自分のことをできる人間だと信じていたとする。仕事ができる人間でなければ価値はないと思い込んでいたとする。

 

自分を仕事のできる人間だと思うこと、それはあくまでも自分の思い込みでしかない。自分の中の世界の出来事でしかない。

 

しかし、実際には自分がミスをしてしまい、会社に迷惑をかけるというようなことが起きる。これは思い込みの世界ではなく、現実の世界の出来事だ。

 

そうして仕事のでのミスをきっかけに「自分は仕事ができる人間なんだ」という思い込み、自分がそうであるとガチガチ信じていたセルフイッメージが崩れ、自分の中の「仕事ができない側面」が露呈してしまう。

 

まっさらだと思っていた自分のイッメージに「黒いしみ」のようなものが広がる。

 

その時にその「黒いしみ」を、つまり自分の「仕事ができない側面」を厳然と自分の一側面として受け入れることができればいいのだけれど、自分のことを「仕事ができる人間」と信じたい場合、「仕事ができる人間」「まっさらな自分」というイッメージに執着していた場合、「仕事ができる人間でなければ存在価値はない」「まっさらな人間でなければ存在価値はない」という思考パッターンにはまり込んでいた場合、仕事ができない側面、「きれいな自分」というイッメージにそぐわない側面を、こんなのはありへんどす、自分ではないどす、受け入れられないどす、となぜか京風のヒステリーを起こし、否定し、攻撃し、抑圧し、無視してしまう。だから苦しくなる。

 

そして、受け入れたくない自分の側面を見ないようにするために、非日常を「詰め込んで詰め込んで、楽しいことの濃度を上げていく」。「上から塗りつぶすように楽しさを積み上げていく」。

 

そして時として、自分の苦しみを誰かのせいにして、人を責め立て、あくまでも自分の「仕事ができる人間」「まっさらな人間」というイッメージを崩さないように必死に抵抗する。

 

つまり、私たちが非日常を際限なく追い求めてしまい、その非日常のために際限なくお金を追い求めてしまうのは、「価値のある自分」というイッメージに執着し、自分の中の現実の自分の側面、受け入れたくない自分の側面に向き合おうとせず、受け入れようとせず、時としてその側面を攻撃して、普段の自分=日常が苦しいからなのであーる。

 

これが自分だと信じ込んでいる「きれいな自分」「価値のある自分」というイッメージ、そのイッメージを作り込み、磨き上げ、証明し、確認するためにこれまで割いてきた膨大な時間と労力とお金。

 

現実の自分の側面を受け入れるということは、自分が自分だと思い込んできたイッメージ、こうじゃないといけないと追い求めてきたイッメージが崩れ去り、そのイッメージのために割いてきた努力は無駄だったということを受け入れるということになるため、それは確かに苦しい。

 

だからその苦しみを紛らわすために非日常をもってして誤魔化しまうのも仕方ない部分がある。

 

しかしながら、受け入れたくない自分の側面を受け入れていく苦しみを乗り越えれば、その分だけ自己否定が減り、他人を責めることが減り、ああじゃないといけない、こうじゃないといけないという強迫観念が減り、その強迫観念に基づく不安や恐怖も減り、非日常で誤魔化す必要も減り、その分だけ非日常を追い求めることも減り、日常全体が落ち着いて、整ってくる。

 

逆に、受け入れたくない自分と向き合うことを拒否し続け、誤魔化し続けていると、延々と苦しみの無限ループから抜け出すことはできない。

 

きれいな自分というイッメージに執着しているが故の苦しみを緩和するために、非日常をもってして誤魔化してしまうのは仕方がないし、ある種の一時的な避難場所というのも確保しておく必要もあるけれど、自分が今、向き合うべきことに向き合わず誤魔化しているということ、一次避難をしているということ、そのこと自体には自覚的である必要がある。

 

そしてその時に誤魔化していることを正当化しないことが重要になってくる(誤魔化しているということは向き合うべき自分の側面を蔑ろにしているという点、自分自身を大事にしていないという点、つまりそうすることによって苦しみの無限ループに自分を陥れているという点で正しいことではない)。

 

そして誤魔化している自分を責めないことも重要になってくる(誤魔化してしまう自分を責めるということは「誤魔化さない自分」という「きれいな自分」というイッメージに執着しているということになる。「誤魔化してしまう」という受け入れたくない自分の側面を否定し、苦しみを生み出してしまっている。結局は苦しみの無限ループにはまり込んでしまっている)。

 

自分はこういう人間なんだと信じたい(あるいは信じている、あるいはそういう人間じゃないといけないと強迫的に思い込んでいる)きれいな自分のイッメージ。

 

その美化されすぎて現実離れしているイッメージを少しづつ突き崩し、現実の自分の側面、きれいな部分以外の自分の側面を少しづつ受容していく。

 

受け入れたくない現実の自分を受け入れていく過程は苦しいかもしれないけれど、これをやらない限り、苦しみの無限ループからは絶対に抜け出すことはできない。

 

かったるいかもしれないけれど、やるしかない。

 

と言っている瞬間からかったるくなってきた。

 

よーし、こうなったら酒、タバコ、ギャンブル、風俗、ポルノ、暴飲暴食、爆買い、惰眠、ネットサーフィン三昧じゃ! 非日常バンザイじゃ。ええじゃないか、ええじゃないか。

 

と幕末期の江戸っ子のように自暴自棄にならないようにほどほどに誤魔化していこう。

 

というような情けない側面も、自分の悪の部分ということだ。

 

声出して切り替えていこう。