おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

「記号」と「自分の大事さ」の関係

 新聞やテレビがニートを問題にするとき、「生涯で得られる収入の差が正社員とアルバイトでは二億円になる」とかそんな金の話ばっかしているが、人生の意味や価値を金に換算しようとは思わないからこそ、プー太郎という人生を選んだのだ。そもそも人生の時間と二億円のどっちが本当に貴重だろうか? 即座に「二億円」と答える人の方が間違っていないか。

 たとえば、近所に農家があったとして、そこからあまった野菜をもらってきて、漬物をつけていたらGDPは一円もカウントされないが、同じその時間にパチンコをやっていたらGDPに計上されて、国家の豊かさが増したことになる。そういう計算しか存在しない社会がだいたいおかしいわけで、「二億円」という答えもその一環だと考えるべきだろう。

保坂和志『いつまでも考える、ひたすら考える』

 

私たちは人からいかにして価値のある人間として認識してもらえるかということを主軸にして生活している。

 

そして人から価値のある人間として認識してもらうために、価値のある記号や象徴をかき集め、それによって身を固めようとネバギバの精神で頑張っている。

 

そこには表層的な記号で人や自分の価値、人や自分の大切さが決まるという思想がある。

 

そしてその記号なり象徴なりはわかりやすいほうがいい。

 

よって「2億円」という記号「GDP」という記号にどうしても価値を見出してしまう。

 

「私は2億円を持っている」「日本はGDPの高い国だ」と言うことで、手っ取り早く自分や自分の国(自分の国というのも一つの幻想・単なる概念でしかないだけれど)の価値を証明するができる。

 

よって、私たちにとって大切なのは記号、表層であって、中身や実質や内実ではない。

 

自分を価値のある人間として認識してもらうための記号として「お金」がある。

 

宝くじを当てて手っ取り早く大金を手に入れ、その大金をもってして自分を価値のある人間として規定したい。

 

あるいは仕事と節約を頑張って、お金をかき集めては握り締め、そうして溜まったお金をもってして自分の価値を規定したい。

 

お金を人から盗むなり、だまし取るなどして大金を巻き上げ、その大金をもってして自分を価値のある人間として規定したい。

 

以上の3つは、大金を手に入れるための手段は異なるけれど、記号によって自分の価値を規定することができるという前提に立ち、自分を価値のある人間として認識してもらうための記号としてお金を利用し、お金の多寡によって自分の価値を規定しようとしているという点は共通している。

 

手段はどうであれで、記号集めのために努力していることに変わりはない。

 

上には記号の例として「お金」を挙げたけれど、基本的に不特定多数の人間が価値を見出しているであろうものはどんなものでも記号になり得る。

 

富、地位、権力、名声、褒章、学歴、職業、実績、家柄、血縁、土地、家、ブランド品、美貌、筋肉、作品、フォロワー数、生産性、GDP、民族、国籍、宗教、趣味、結婚、友人、恋人、同僚、知り合い、子供、などなど他にもたくさんあると思う。

 

以上のものそのものに価値がないと言いたいわけではない。以上のものには確かに価値がある。

 

しかしながら、それらの有無で自分の価値を規定しようとしている限り、それらは記号でしかない。

 

私たちは記号の種類や記号の有無で自分の価値を決めようとしてしまうのだけれど、そもそも自分の価値や自分の大切さというのは、それらの記号の種類や有無とは全く関係なく絶対的にある。

 

自分が自分にとって大事であることは絶対だ。

 

このことに気がつけば、すでに自分には価値があり、自分はすでに大事なのだから、記号をかき集めて自分を価値のある人間として規定する必要がなくなってくる。

 

あとは大事な自分を大事にしていくだけだ。

 

自分を大事にするためにある程度のお金は必要になるため、働くことは大事になってくる。

 

正社員がいいのかアルバイトがいいのか、衣食住に困り、自分を粗末にせざるを得ない生活でなければ、どちらでもいい。

 

そして自分を大事にするためには、自分の心と体、持ち物、身近な人を大事にしていく必要がある。

 

それらを大事にして自分を大事にしていく、これだけでガチのムチで十分なのだけれど、そうして自分の心身や身の回りのものを大事する習慣が身につき、実際に大事にしていけるようになると、当然自然と自分の心身や日常生活や人間関係が整ってくる。

 

すると、記号として上に挙げたものの内のいくつかが勝手に付いてくるということが起こる。

 

かき集めようとしたわけではないけれど、使い切れないほどのお金がたまっている、昇進している、仕事や勉強が捗る、信頼できる友人や知人ができている、大事な恋人ができ、円満な結婚生活が送れている、ということが起こる。

 

しかし、それらはあくまでも副産物でしかない。

 

無論オムロン、生じたたら生じたでありがたいことなのだけれど、たとえ生じなかったとしても、そんなこととは関係なく自分の価値や大事さというのは変わらずに絶対的にあるわけなので、自分の心身や身の回りのものや人を大事にし続けていくだけだ。

 

そうすることによって、大事な自分を大事にするという目的は達成され続ける。

 

ここでいう「自分」というのは「人から見られる自分」「きれいな自分というイッメージ」ではなく、「不完全なままの自分」「悪の側面があるままの自分」つまり「実際の自分」のことだ。

 

人から価値のある人間として認識してもらうために価値があると思われる記号をかき集め、自分の価値を人に証明し、人から自分を大事にしてもらおうとすることに時間と労力を割いて努力することよりも、自分で自分の価値や大事さに気づき、自分が自分を大事にしていくことに時間と労力を割いて努力していくほうが遥かに確実で有意義で効果的だ。

 

声出して切り替えていこうと思う。