邪悪性はとくに次のような特性によって識別できる。
(a) 定常的な破壊的、責任転嫁的行動。ただしこれは、多くの場合、きわめて隠微なかたちをとる。
(b) 通常は表面に現れないが、批判その他のかたちで加えられる自己愛の損傷にたいして過剰な拒否反応を示す。
(c) 立派な体面や自己像に強い関心をいだく。これはライフスタイルの安定に貢献しているものであるが、一方ではこれが、憎しみの感情あるいは執念深い報復的動機を隠す見せかけにも貢献している。
(d) 知的な偏屈性。これには、ストレスを受けたときの軽度の統合失調的思考の混乱が伴う。
M・スコット・ペック『平気でうそをつく人たち』
これらを私なりに言い換えると以下のようになる。
(a)邪悪な人間は、常に自分は悪くないという立場をとる。よって、自分にとって都合の悪いことが起こると、その原因は全て他人や社会や特定の集団のあるとしか考えることができず、諸悪の根源であると思われるそれらを暗示的あるいは明示的な方法で攻撃し、抹殺しようとする。
(b)邪悪な人間は、自分を「清く正しく善良で価値のある自分」というイッメージとして捉えており、そう思い込んでいる。そのきれいなイッメージのみを愛し、大事にしているため、そのイッメージが崩れそうになると、見たくない自分、現実の自分への拒否感から情緒が不安定になりヒステリックな反応を示す。
(c)邪悪な人間は、他人から「清く正しく善良で価値のある人間」として見てもらうことが最優先事項であり、人生の目的になっている。「内面」や「内実」は関係なく、とにかく人からよく見てもらえるために努力するため、その努力により経済的に安定しやすく、表面上は「清く正しく善良で価値のある人間」のように見えやすいのだけれど、その内面や内実は憎悪感情や恨み妬み嫉み辛みで満ち溢れていて苦しく不幸な状態にある。
(d)邪悪な人間は、自分は絶対に正しいと思い込んでいる。よって、正しい自分が判断し、正しい自分が行う物事は全て自分の思いどおりにいくと思っている。しかし、現実は自分の思い込みとは関係なく存在し作用するため、思いどおりに行かないこと、自分にとってストレスとなるようなことが当然起こり、それは自分の絶対に正しいという思い込みを突き崩すきっかけにもなる。これは自分にとって大きなショックとなり、混乱が生じる。そして自分の絶対的な正しさをどうにか保とうとして妄想や幻覚や幻聴を自ら作り出す。
人間である以上、完璧な状態もなければ、純度100%善良な人間もいない。
よって誰もが必ず不完全性や悪の側面を抱えている。
たしかにその不完全性や悪の側面を改善していく普段の努力は必要なのだけれど、そういった不完全性や悪の側面があること自体は実は問題ではない。
(無論オムロン、問題ではないからといって、そういった不完全性や悪の側面を正当化して、それらを「完全」とみなしたり「善」とみなしたりしてもいいということにはならないし、確かにある不完全性や悪の側面を改善していく努力を不要とみなしてもいいということにはならない)。
問題なのは、自分の中に確かにある不完全性や悪の側面を、見ようとせず、認めようとせず、受け入れようとせず、あたかも自分にはそういった側面がないかのように「自分は清く正しく善良で価値のある人間だ」というイッメージに執着することだ。
そして、そのイッメージにしがみつき、そのイッメージを作り上げ、証明していこうとする過程において、不完全で悪の側面がある自分つまり実際の自分を無視し、抑圧し、攻撃し、否定し、自分自身を痛めつけて傷つけて苦しみを生み出してしまっていることだ。
(無論オムロン、同イッメージを証明していく過程で、不完全で悪の側面がある他人をも痛めつけ傷つけてしまう)
「自分は清く正しく善良で価値のある人間だ」というイッメージに囚われて自分や他人を当然のごとく痛めつけ傷つけること、これが邪悪性というものと言える。
邪悪性の度合いが高ければ自分の苦しみは増すし、また、邪悪生の度合いが高い人間といると痛めつけられ傷つけられて苦しみやすくなる。
(無論オムロン、他人の邪悪性を見極めようとする際は、自分自身が「自分は清く正しく善良で価値のある人間だ」というイッメージに囚われ、同イッメージにとって都合の悪い相手を見境なく邪悪なものとして見ようとしていないか、ということに注意を払う必要がある)
上記の(a)~(d)を参照し、自分の邪悪性に気がついたら、まずはとりあえず「ぴえん」からの「テヘペロ」、それから反省と改善に努めていくしかないし、これから自分が長く付き合っていくかもしれない相手、恋人候補や配偶者候補や家族友人知人同僚等の邪悪性に気がついたら、他人の邪悪性は自分の力でどうにかできるものではないので、とりあえず「ぴえん」からの「テヘペロ」、それから可哀想ではあるけれど、そういう人から離れるように努めたほうがいい。
自分が邪悪かどうかは、自分の都合で相手をサンドバッグにしようとしていないか、相手が邪悪かどうかは、相手の都合で自分がサンドバッグにされようとしていないか、みたいな感じの雰囲気的なニュアンスの基準で判断できるかもしれない。
相手のことばかりを見極めようとし、あたかも自分には邪悪な側面はないかのようにふるまうのではなく、同じものさしを相手にも自分にも適用する必要がある。
そうすると、案外と自分も邪悪であり相手も邪悪であることがわかり、え!奇遇じゃん!運命じゃん!となり、意気投合し、いい仲間になれるかもしれない。あるいはお互いの「自分は清く正しく善良で価値のある人間だ」というイッメージの証明を競い合い、血みどろの戦いを延々と繰り返す良きライバルになるかもしれない。
邪悪な私も邪悪な奥さんを見つけるために、上記(a)~(d)のものさしを持って婚活会場に向かうことにしよう。
声出して切り替えていこうと思う。