おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

誤魔化すための強迫衝動

「あなたにそうした症状が現われる原因のひとつは、そうした症状が煙幕の役割を果たしているからです」私は彼に説明してやった。「自分の強迫観念や強迫衝動について考えたり話したりしていれば、その原因となっているもっと根本的な問題を考えずにすむからです。あなたがこの煙幕を利用するのをやめようとしないかぎり、つまり、自分のみじめな結婚生活やひどい子供時代のことをもっとしっかりと認識しないかぎり、いつまでもあの症状に苦しめられますよ」

M・スコット・ペック『平気でうそをつく人たち』

 

私の職場に自分はあの人から意地悪をされている、影で悪口を言われている、という思い込みを抱えている人がいる。

 

仮にその人をAさんとする。

 

Aさんは学歴もあり、博士号まで取得しているのだけれど、とにかく情緒が不安定で、何か自分にとって不都合なことがあると、自分が目の敵にしている人のせいにする。

 

Aさんから目の敵にされている人をBさんとする。

 

そして私はAさんともBさんとも業務上やりとりすることが多く、Aさんが「Bさんにまた意地悪をされた、あの人は影で私を貶めている!」と息を荒げて管理部に駆け込むようなことがあると、管理部より事実確認として私も聴取される。

 

少なくとも私からすると、BさんがAさんにたいして意地悪をしたり誹謗中傷しているようなことはない(もちろん彼女の情緒不安定さに困惑することはある、それは私も同様だし、管理部の人間も同様だ)。

 

Aさんは常々、何かに付けてBさんを悪者にしようとする。

 

ちょっとしたことでも、あるいは何の関係もなさそうなことでも、それをBさんが悪いように捉え、つまり自分にとって都合が良いように捉え、時として「そんな捉え方もあるのんかー」と思わずこちらが感心してしまうほど芸術的で否定的な捉え方をして、Bさんを悪者にしようとする。

 

Aさんは、Bさんを悪者にすることによって「善良は自分」「正しい自分」というものを感じることができる。

Aさんは被害者、Bさんは加害者という構図を作ることによって人から「可哀想な自分」というものを感じることができる。

 

そうして「善良で正しくて、だけれど不当に辛い思いをしている可哀想な自分」という、自分が感じたくて信じたくて実際にそうだと思い込んでいる自分像を作り出そうとしている。

 

「私は善良で正しくて不当に辛い思いをして可哀想な人間」という印象を周囲の人間にアッピールしようとしている。

 

なぜか。

 

寂しいから。

大事にしてもらいたいから。

愛されたいから。

認められたいから。

 

「自分は価値のある人間である」ということを証明すれば、アッピールすれば、人から大事にしてもらえる。

この根本的な思考パッターンに基づき、Aさんは「善良な自分」「正しい自分」「被害者の自分」というイッメージを作り出し、それをアッピールしようとしている。

 

それは実際に善良である必要はない、実際に正しくある必要はない、実際に被害者である必要はない。

そういう印象を他人に与えることができればいい。

 

「善良な自分」「正しい自分」「可哀想な自分」というイッメージなり印象なりを作り出すために努力する必要はない。

その手のイッメージは他人を否定し、他人を悪人にするだけで手軽にできてしまう。

いや、他人を否定するために他人の悪を是が非でも見つけ出し、なければこじつけで作り出す努力は必要かもしれない。

 

自分を本当にガチムチで見つめた場合、自分の中には善良さとはかけ離れた側面があることに気がつくし、正しさとはかけ離れた側面があることにも気がつくし、人に加害し、可哀想な目に合わせようとする側面があることにも気がつく。自分が人に与えようとしている印象とは全く異なる側面が自分にあることに気がつく。

 

「善良な自分」というイッメージを作り出しアッピールするために他人の悪を否定することが常習化しているということは、当然、悪に対して否定的であり、不寛容であり、よって実際には悪の部分がある自分を否定し続けていて、だからこそずっと苦しい状態が続く。

 

自分には悪の側面があるということを認めてしまうと、自分は「価値のない人間」ということになり、価値のない人間になってしまったら、人から大事にしてもらえない、愛してもらえない、認めてもらえない、自分の寂しさが解消されない、と思い込んでいるために、自分には悪の側面があると認めることが恐怖であり不安であり到底認められない。

 

だからより一層、自分の善良さや正しさをアッピールするために、物事を歪めて解釈し、他人を悪者にし、他人を否定する。

 

自分の苦しみは自分の悪の部分(現実の自分)を見ようとせず、認めようとせず、否定しているから生じているにも関わらず、その因果関係に気がつくことなく、その苦しみの原因を他人に見出し、他人のせいで自分は苦しんでいると錯覚し、その他人を責めてその他人が変われば、あるいは他人が消えれば自分の苦しみはなくなると思い込んでいる。

 

苦しさや不安や恐怖を誤魔化すために強迫観念や強迫衝動を必要とし、それらを実際に生み出し、その強迫観念や強迫衝動に囚われて他人を悪く見て他人を攻撃し否定する。

 

向き合うべきものから逃れ、誤魔化すために、何らかの考えにとり憑かれていることを選んでいる。強迫観念や強迫衝動を起こしている。

 

だから一向に自己否定はなくならず、不安も恐怖もなくならない。

 

「善良な自分」「正しい自分」「可哀想な自分」「価値のある自分」といった自分にとって都合の良い自分を感じて、なんとか自分を肯定するために、強迫観念や強迫衝動が必要になってくる、他人を否定することが不可欠になってくる。

 

だからどこにいっても強迫的に他人を否定する。

否定する取っ掛かりがなかったら、無理矢理にでも探し出し、作り出して否定する。

 

この無限ループから抜け出すためには、自分の悪の側面、自分がアッピールしようとしているイッメージとかかけ離れた自分の現実と向き合う必要がある。

 

「価値のある人間」ということを証明すれば、人から大事にしてもらえる、自分の寂しさは解消されるという根本的な思考パッターンが、錯覚であることに気づき、その思考パッターンから離れることが必要になってくる。

 

私たちに、大事にされたい、愛されたい、認められたいという根本的な欲望があるのは事実なのだけれど、自分が「価値のある人間」ということを他人に証明すればその寂しさは解消されるという思考パッターンは間違っている。

 

この間違った思考パッターンにはまり込み、どれほど人生の膨大な時間と労力が「価値のある自分」というイッメージを証明してくれると思われる記号集めや他人を否定することに費やされているのかに気がつく必要がある。

 

以上を踏まえて、これまでの自分を振り返り、そして今の自分を見つめてみる。

まじでやばいと思う。

 

おいどんはAさんとは違う、おいどんは高尚な人間ざます、と声高らかに宣言することは到底できない、でけへん。

 

よーし、こうなったら今日は見たくない自分を誤魔化すために非日常三昧ざます。

 

声出して切り替えていこうと思う。