おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

非日常の楽しさは日常に苦しさに支えられている

寂しさを感じるときには、あるパターンがあった。決まって時間にゆとりがあるときだ。暇なときに寂しくなっている。なるべき仕事を詰め込んで忙しくし、寂しさを相殺するようにした。

前野ウルド浩太郎『バッタを倒しにアフリカへ』

 

私たちは何もない時間を何もない時間として過ごすことがほとんどできない。

 

特に何もやることがなければ、お茶でも飲んでゆっくりしておけばいいのだけれど、何かとやることを詰め込んだり、スマホや飲酒やギャンブルやテレビや読書で気を紛らわせる。

 

あるいは意味もなく街やショッピングモールをふらつき歩く。

 

なぜかというと、何もしていないとき、時間を特定の何かのために使っていない時に、寂しさや不安を感じて苦しいからだろう。

 

そういった寂しさや不安を誤魔化すためにとにかく何かで忙しくする。

自分を無視する。自分を見ないようにする。

 

自分ではなく、ずっと他人の動向や自分ではないものばかりに注意を払い続けために寂しさが生じている。自分を見ているようで、現実離れした自分のきれいなイッメージしか見ようとしないために寂しさが生じている。自分の不完全で醜悪で邪悪で冷淡で傲慢な側面にも注意を払いそれらを受け入れようとせず否定しているために不安が生じている。

 

そうして常に何かで誤魔化していないと気が持たない程に日常が苦しいために、その日常の苦しさを紛らわせてくれる非日常が凄まじく楽しく感じてしまう。

 

非日常の楽しさは日常の苦しさに支えられているわけだ。

 

昼間の日常の苦しみを耐え、夜間の非日常で苦しみを誤魔化す。

平日の日常の苦しみを耐え、休日の非日常で苦しみを誤魔化す。

 

人生の大半を占める日常が苦しみに染まり、その苦しみを誤魔化すものとして僅かな非日常があり、そうして非日常をいかに多く味わい、いかに多くの苦しみを誤魔化すことができるのかが幸福ということになっている。

 

しかし、非日常は必ず終わり、最終的には必ず日常に戻らなければいけなくなる。

仮に幸運に見舞われ非日常を繰り返せるほどの財力と時間を手に入れたとしても、繰り返される非日常は必ず日常となる。

 

早く今日が終わって欲しい。

早く週末が来て欲しい。

早く長期休暇が始まって欲しい。

早く定年退職したい。

早く刺激が欲しい。

ずっとこうしていたい、日常に戻りたくない。

 

このような衝動に駆られるということは何かがおかしいということなのだろう。

つまり、見たくない自分や現実、受け入れたくない自分や現実に向き合おうとせず、ずっと逃げて、ずっと否定しているということなのだろう。

 

こういう人間には価値がある、こういう人間でなければならない、そう思い込み、そういう理想像とは実際にはかけ離れている現実の自分を見るのは確かに辛い。

 

実際の自分は、理想通りの清廉潔白な人間でもなく、善良な人間でもなく、有能でもなく、完璧でもない。確実に老い、病気になり、朽ち果てていく(だからといって「自分はダメ」ということにはならないのでこの点は要注意)。

 

自分は絶対に正しいという大前提のもと、これは価値がある、これは間違いないと思ったものを必死にかき集め、握り締め、自分の価値の根拠にし、優越感を得ようとする、そして最後はそうして必死にかき集めたものの全てを置いて死んでいくことになる(富、名声、権力、美貌、ポケモンカード)。

 

そういった現実の自分と向き合うのは確かに辛いが、それが事実なのだからどうしようもない。

 

そういった現実を受け入れようとせず、逃げたり誤魔化したりするだけの日々になると空っぽの人生になってしまう。

 

いきなり自分の厳然たる全ての現実に直面すると、自分にとって都合の良い思い込みが全て粉々に砕かれ、精神的に崩壊してしまうため、多少の誤魔化し=非日常はどうしても必要になってくるが、誤魔化しは誤魔化しでしかなく、非日常は非日常でしかない。

 

日常からは絶対に逃れられないため、自分にとって都合の悪い現実を少しずつ受け入れていく方向性の努力はしていく必要がある。

 

その過程において、非日常が然るべき現実を受け入れるための有効な手段、つまりちょっとした休憩程度になっているくらいであればいいのだけれど、誤魔化しを渇望し、いかに多くの誤魔化しを享受するのかが人生の目的みたいな感じのニュアンス的な雰囲気になってくると立派なジャンキーへの道を進むことになる。

 

日常の余白が苦痛になっていないか、あるいは日常自体が苦しみになっていないか、その結果、余白を何かで埋め尽くそうとしたり、キラキラした非日常を渇望するだけの日々になっていないか。

 

そうなっているということは、自分の中で現実の自分を受け入れず、否定し、粗末にしているということになるのだろう。

 

この原理がぴんとこない人は、日常の苦しみの原因を他人や特定の集団のせいにして、他責という刺激で自分を誤魔化し続けることになるのだろう。

 

声出して切り替えていこうと思う。