おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

日常の種類

今日で8連休だった正月休みが終わる。

 

年末は友人が遊びに来て、非日常的な過ごし方をしたのだけれど、それ以外は至っていつもの休日だった。

 

基本的に自分を大事にするための家事、運動、読書、執筆、瞑想の日々なのだけれど、すごく良い。

 

(人は基本的にこれらの営みを通じて自分を大事にできるし、自分が自分を大事にすることによって幸福になれるし、自分を大事にするための営みは、人によって多少の違いはあるかもしれないけれど、驚くほどに極めて平凡で、特別な資格や特別なモノや大金はガチのムチで不要で、誰でもできるのでこのことに気がついて多くの人にやってもらいたいとガチのムチで思う)

 

今後、諸行無常の理によって病気や事故や犯罪や災害に巻き込まれずに定年退職というものができたとしたら、このような日々を送ることになるのではないかしらん。

 

すごく良いことだと思う。

 

ここ数ヶ月間は1日年休ではなく午前年休が気に入っている。

午前中に集中してやりたいことをやり、午後は労働をする。

 

職場は人との交流の場であり、個人の日常レベルではない問題解決のために頭を使って脳髄を大事にできる機会の場であり、自分を大事にするために必要な生活費を稼ぐ場で、それはそれでとても価値のある場所だ。

 

今のように1日7~8時間労働ではなく、ずっと午前年休状態という日々も良いように思う。

 

午前中は個人的に集中したいことをやる(午後よりも午前のほうが脳髄の働きが良い)、それから昼食をとり、午後2時~午後6時くらいまで外で働く。それから運動、夕飯、入浴、瞑想、読書。まじで最高なのではないか。

 

少なくともこのような老後を送りたいとは思うのだけれど、このような日々は老後まで待たなくても送ろうと思えば送れるのもまた事実。

 

これが俗にいうセミリタイアなりサイドFIREというものだろう。

 

セミリタイアやサイドFIREが苦痛に変わってしまう(という人がいるらしいが)のは、時間の使い方がわからず、非日常的な使い方しか知らなかったり、特にやりたくもないことを惰性でダラダラやる以外にやることがないからなのかもしれない。

 

非日常は繰り返せば必ず日常になり、飽きて退屈に変わる、そして惰性で何かをダラダラやるだけになり、それはそれで、こんなことをして何になるのかしらん、これだけの人生なのかしらん、と虚無感に襲われる。そして日常に何らかの意義を見出すために働き始める。しかし、自分には膨大な自由な時間を有意義に過ごせる能力がなかったことに気がついた後の「働く」は、セミリタイア前の労働とはまた違った種類のものになっていて、以前にはなかった意味が付与されていて、以前よりもより気持ちよく働くことができるのだけれど、それは苦しい日常からの単なる逃避とも言える。

 

働き始めても、諸行無常の理によってずっと働き続けるということはできない。

 

諸行無常の理によって、労働によって誤魔化していたもともとの日常に必ず引き戻されることになり、手元の自由な時間の有意義な使い方は相変わらずわからないままで、再び非日常的に過ごすか、特にこれと言ってやりたくもないこと(特に見たいわけでもないテレビ番組、ネットコンテンツ、マンガ、ゲーム、アダルトサイトを見たり、特に欲しいわけでもないものを買ったり、特に行きたいわけではない場所に行ったり)を繰り返すだけの日常となってしまうのだろう。誤魔化しと惰性だけの日々を振り返り、これまでの人生は何だったんだろうと虚無感に襲われ、そして今日も何をすればいいかわからない、とりあえず特にやりたいことではないけれど、これでもやるか、と虚無的に一日をスタートさせ、惰性的に時間を過ごすことになるのだろう。

 

(A)自分が自分を大事にしていくことを目的とした営みによって構成された日常

 

(B)人から自分を大事にしてもらうことを目的とした営み(人の上に立ち人を見下し自分はこんなに価値のある人間なんだということを証明し人から大事にしてもらおうとするための営み、つまり、人を粗末にして人から尊敬してもらうことを目的とした営み、つまり、自分を粗末にすることを目的とした営み)によって構成された日常

 

(C)特段の目的もなく、惰性的な営み(自分の大事な時間と労力とお金を空費するための営み、自分のことを無駄にし、粗末にするだけの営み)で構成された日常

 

私は20代で(B)の日常も(C)の日常も体験し、その苦しさを痛感したつもりだ。

 

そして今(A)の日常を心がけているのだけれど、これは本当におすすめできる。

 

此度の長期休暇でその対虚無耐性と持続可能性について手応えを得ることができた。

 

無論オムロン、これは現時点の私の主観であり絶対化はできない。期間が長期に渡ればまた何らかのことに気がつくことになるかもしれない。

(自分を粗末にしたり、人を見下して優越感を得たり、惰性的に時間を過ごしたり、虚無感を抱いたりすることの必要性なり意義を見出すこともあり得るかもしれない)

 

少なくとも今の自分は(A)の日常が気に入っている。

 

声出して切り替えていこうと思う。