「ひどい仕事? しかし彼らはそうは思っていないよ。逆に好んでやっている。楽だし、子供でもできる単純なものだ。頭脳にも筋肉にも負担が少ない。さほど疲れない作業を七時間半やれば、ソーマがもらえて、ゲームや制約のない性交や、触感映画が愉しめる。これで何が不足なのかね。確かに」とつけ加える。「労働時間の短縮は望んでいるかもしれない。そしてもちろんその短縮は可能だ。すべての下級労働を一日三、四時間にするのは、技術的には簡単なことだ。しかしそれで彼らがより幸せになるのか。ならないね。その実験は一五〇年以上前に行われた。アイルランド全土で四時間労働制がとられたんだ。余分に増えた三時間半の余暇は幸福の源泉とはほど遠く、みんな”ソーマの休日”をとらずにいられなくなったんだ。<発明院>には労力節約プランがうんとある。何千とある」ムスタファ・モンドは大きな手ぶりをした。「なのにそれらを実施しないのはなぜか。労働者に過剰に余暇を与えるのは残酷なことだからだ。
労働をして非日常の中で快楽に耽る。これが私たちの生活パッターンだ。
労働をしていると休みが恋しくなる。
そしてもっと休みが欲しくなる。
自由な時間、すなわち何をやってもいいし何もやらなくても良い時間があれば自分はもっと幸福になると思ってしまう。
んじゃあ、その自由な時間を使って何をやりたいのかというと特に何もない。
思いつくこと言えば、今の日常とは違う非日常、平凡ではない特別な時間、快楽に満ち満ちた刺激的な日々。
非日常というのは時々であるからこそ味わえるわけで、その頻度が一定度を超えるとその非日常は日常になる。
おそらくディズニーランドに毎日のように通うとさすがに何の感慨も覚えなくなるのではないかしらん。
私はかつて宮古島に住んでいたことがあり、そこには非日常的なド級にきれいな海があることは知っていたが半年で2、3回くらいしか海には行かなかった。
やっていたことは、労働、読書、運動、家事で今の日常とテンプレートは変わらない。
話を戻すと、仮に余暇が増えたとして、その余暇を自分なりに有意義に過ごす能力がなければ、その余暇は非日常的な快楽で埋め尽くされ、そしてその非日常も繰り返すことによって日常となる。
非日常を求めるのは日常が苦しいからで、そして仮に非日常を好きなだけ味わうことができても、それは日常となり、また苦しくなり、また新たな非日常を求め始めることになる。
ちなみに小説の中の「ソーマ」というのは副作用のない精神安定剤、いわゆる麻薬のようなもので、服用すると気持ちよくなり自分とって不都合な現実を誤魔化すことができ、見ないで済むようになる。
日常が安定していないと、労働で日常の苦しみを誤魔化すか、非日常で日常の苦しみを誤魔化すか、そのどちらかしかない。
定年後の非日常を夢見て、ネバギバの精神で頑張り、ようやく定年後の生活が始まり、その初期段階は非日常を味わうことができるとしても、その非日常が日常となった瞬間に、その後の日々が苦しみに変わり、こんなん思い描いていた老後違うどす、と嘆いている大先輩方は数多くいるのではないかしらん。
今日では定年がかつてより延長されているが、それも日常を労働で誤魔化せる期間が伸びただけのことであって、いずれはどうにも誤魔化せない日常の苦しみに直面することになる。
ちなみに私の母も、特にお金に困っているわけでもないが、自分の自由な時間をどのようにして過ごして良いのかわからず、退屈で仕方ないため、労働に勤しんでいるという。
しかも賃金が発生しないにもかかわらず始業の1~2時間前から働き始めているという。
(言い方は悪いかもしれなが奴隷的で可哀想な気もする。そう言えば、私の職場にも何もやることがないにも関わらず、朝の早い時間に出社している定年を迎えた御人方が複数名いる)
労働や快楽で誤魔化すことなく日常を有意義に過ごす能力、日常の苦しみに対処する能力を身に付けておかないと、本当の意味で労働から引退した後、苦しみに満ちた空疎な日々をもってして人生を締めくくることになってしまう。
この悲劇を避けるために、というより休日を楽しむためには、休日のルーティンを組み上げておくといい。そのルーティンも非日常的なものではなく、日常的なものがいい。
掃除、洗濯、自炊、運動、読書、執筆、散歩、食材や日常品の買い出し、昼寝、入浴、瞑想、会話、軽い晩酌等、など労働抜きの平凡だけれど確実に自分が整う営みのブロックで休日を組み上げるといいと思う。
その一日はすでに日常的なので何度繰り返しても非日常のように色褪せることがなく、会社や社会の制限を受けることもほとんどなく、お金もさほどかからず、しかも繰り返すほどに自分と自分の日常空間が確実に整っていく。
(労働という誤魔化しができなくなって苦しむ人は、労働か非日常的な快楽のいずれかにしか価値を見出せず、それらは会社や社会の制限を受けやすく、お金もかかり、持続的ではない)
声出して切り替えていこうと思う。