外に出かけることが遠ければ遠いほど、知ることはますます少なくなっていくものだ。それゆえ「道」と一体になった聖人は出歩かないですべてを知り、見ないでいてすべてをはっきりとわきまえ、何もしないですべてを成しとげる。
足もとよりも、さらに自分の内を見よ。外に向かって見開いた眼を逆に内に転じて、わが心の奥底を凝視せよ。そこに一切は備わる。
人は、物事をあるがままに、つまり客観的に見ていると思い込んでいるのが常である。しかし、私たちは世界をあるがままに見ているのではなく、私たちのあるがままに(条件付けされたままに)世界を見ているのだ。物事を説明しようとすると、それは結果的に自分自身、自分の知覚、自分のパラダイムを説明しているにすぎない。
スティーブン・R・コヴィー『7つの習慣』
私たちは、物事をあるがままに正しく見ていると思い込んでいて、自分が見ているものに自分なりの色付けをしているということに気がついていない。
私たちは本来まっさらな物事に自分のこれまでの経験やその時の感情によって色付けをし、その色づけされたものを紛れもない真実、確固たる実体として思い込んでしまう。
言い換えると、私たちは常に自分の心をフィルターを通して物事を見ていて、そのフィルターの色が変わらなければ、どこに行こうと物事は同じように見えることになる。
私たちは自分の心のフィルターの外側に出ることが絶対にできない以上、私たちは一人ひとりが自分の心のフィルターの内側に住していて、自分の心が全てであるともいえる。
心のフィルターが苦しみの色に染まっていれば、どんなに遠くへ出かけても物事を苦しく感じてしまう。
行ったことのないところへ行き、非日常の刺激によって誤魔化しが効いている間はいいのだけれど、非日常も繰り返せば日常となり、いつかはまた苦しくなってくる。
そしてまたその苦しみを誤魔化すために非日常を求めて遠くへ出かけようとする。
心のフィルターが苦しみ色であるが故に日常が苦しく、それ故に非日常的な刺激を求めざるを得なくなる。
行ったことのないところに行きまくる。
持っていないものをかき集める。
会ったことのない人に会いまくる。
刺激に慣れると、飽きてまた次のものへと移る。
これの繰り返し。
逆に、心のフィルターが喜びの色に染まっていれば、特にこれと言った非日常を渇望する必要がない。普段の何気ない地味で平凡な日常でも心が穏やかであるために、苦しみがなく、強い刺激で苦しみを誤魔化す必要がないがないからな。
心のフィルターが苦しみに染まっているかどうかというのは、自分の注意が自分の外側に向いているか内側に向いているかによる。
自分の内側に眼を向け、自分が今どのようなことを思っているのか、どのような気持ちなのか、どのような感情がわき起こっているのか、ということに注意を向け、自分の心に寄り添ってあげることができれば、心は穏やかになってく。
一方で、自分の注意が外側に向きっぱなしで、非日常のケツを追いかけ回してはびっくんびっくん興奮ばかりしていると、心は自分の相手をしてもらえていないように感じ、寂しくなる。
あるいはこんな醜い感情を起こしてはいけないんだ、メッ!と心を罰するようなことをすると心は傷つき、悲しくなる。
我々の心というのはある種の「かまってちゃん」で、私の5歳の姪っ子のように繊細なのでーある。
そういった自分の心を日頃から無視したり罰したりして虐待していると当然心は苦しみ、そうして苦しみ色の心のフィルターができ、あらゆるものが自分を苦しめているように見え、日常が苦しくなり、その苦しみを他人のせいにして怒り狂うか、苦しみを誤魔化すために非日常を渇望するようになる。
一方で、自分の心に日頃から注意を払い、自分の感情や思いにも寛容で、自分の心に寄り添ってあげることができていれば、心は安心し、穏やかになり、苦しみ色のフィルターが形成されない。よって地味で平凡な日常が苦しくならず、その苦しみを他人のせいにする必要もなく、苦しみを強い刺激で誤魔化す必要もなく、日常をささやかな喜びをもって楽しむことができるようになる。
自分の注意を外へ外へと自分ではないものばかりに向けていると(人から見られる自分像というのも「外」に入る)、心が荒み、苦しくなり、苦しみから目をそらすためにさらに外へ外へと向かっていき、非日常を求めてゾンビのように外を徘徊することになる。そうして苦しみの無限ループにはまり込んでいく。
「外に向かって見開いた眼を逆に内に転じて、わが心の奥底を凝視」し、心を大事に扱うと、心は平穏になり、何らかの非日常を求めてゾンビのように外を徘徊する必要もなくなり、その場にいながら苦しみがなくなっていく。
そして日常生活において、自分の注意を内側に転じやすくするためには、使っていないものを捨てて自分の日常空間をすっきりさせておくといい。
余計なものに注意を奪われない分、自分の中で何が起こっているのかを把握しやすくなるからな。
それから瞑想や日記やジャーナルも効果的だ。
そう考えると、心を大事にするために金はかからない。
むしろ、心から眼を逸らすための非日常に金がかかる。
ということは大枚をはたいて非日常を追い求めている人はそれだけ心が苦しく、それだけ苦しみを誤魔化さずにはいられないということなのかもしれない。
自分の心を大事にすると、平凡な日常で満足できるようになる。すると大金が必要な非日常が必要ではなくなるため、経済的にも安定しやすくなる。
自分の心のフィルターの内側が自分の世界であり、そこから出ることはできない。そして私たちは心のフィルターを通して物事を見て、その見え方によって一喜一憂している。これらを踏まえると、心を大事にして整えていくことが自分の全ての根本中の根本になるわけだ。
声出して切り替えていこうと思う。