感覚的な欲望にとらわれて一時的な快楽を追い求めるとき、人はやがてその刺激のなかに溺れて正常な感覚を狂わせてしまう。色のあることが悪いというのではなかろう。「柳は緑、花は紅」とみればよいものを、五色の世界に眩惑されておのれを失ってしまう、真実が見えなくなってしまう、そこがこわいところだ。
歴史上の異次元の賢者たちの教えの中には共通していることがあって、それは以下の2点なのではないかしらん。
・貪るな
・見栄を張るな
仏教やキリスト教やイスラム教やヒンドゥー教や古代中国や古代ギリシャや古代ローマの思想のなかでも、上の2点については共通して説かれているような気がする。
私たちが幸福になるためには、自分が自分を大事にしてあげられるようになり、自分が自分を大事にし続けていく必要がある。幸福というのは大事にする営みそのものの中にある。
自分が自分を大事にする上で大切なことに「自分をきちんと見る、そして受け入れる」というものがある。
自分をきちんと見るためには自分の注意を自分に向ける必要がある。
しかしながら、感覚的な欲望に囚われて一時的な快楽を追い求めると、自分の注意がどうしても自分の外側に向いてしまい、そもそも自分の内側に注意を向けてあげることができない。
そして仮に自分の内側に注意を向けられたとしても、欲に眩惑されていると、そこにあるものをそこにあるとして見て、そこにあるものをあるがままに見ることができず、どうしても自分の都合の良いようにテキトーに見てしまうことになる。
欲に溺れると、自分をちゃんと見て大事にしてあげることができない、幸福になることができない、だからこそ過去の異次元の賢者たちは、欲に溺れるのはやめとけさかい、とエセ関西弁風に諌めてくれているのではないかしらん。
また、私たちは「他人からどのような自分として認知されるのか」ということばかりを気にして日々を生きている。
他人から「こういう自分として認識してもらいたい」というイッメージを抱きながら生きている。
他人から「価値のある人間」として認知してもらいたいと思って生きている。
そして、他人から「価値のある人間」として認知してもらえるように、自分を「価値のある人間」として演出してくれるような記号なり象徴なりレッテルなり振舞いなりを必死でかき集めている(金、地位、知名度、権力、美貌、知識、ブランド品、家、土地、職業、恋人や配偶者のスペック、家族友人知人のスペック、など記号の種類は実に多種多様だ)。
そして、他人から「価値のある人間」として認知してもらえたら、その分だけ自分は他人から大事にしてもらえると思っている。
(結局のところ私たちは誰かから大事にされたくてネバギバの精神で頑張っている)
そして、他人からよく見られるための自分のイッメージ作り、自分のイッメージ作りのための記号集め、自分のイッメージのプロモーション活動ばかりに勤しんでいる。つまり、見栄を張っている。
そして、そのイッメージというのは実際の自分とは大きくかけ離れていて、実際の自分自身ではない。
見栄を張るということは「他人からよく見られるための自分のイッメージ」に自分の注意が向いているということであり、実際の自分、自分の内側に注意が向いていないということであり、自分をきちんと見ようとしてしていないということであり、つまりそれは自分を無視している、自分を大事にしていないということになる。
私たちが寂しさを抱え、人から大事にしてもらいたいと思うのは、詰まるところ自分が自分をちゃんと見てあげていないからで、見たとしても、見えた自分をこんなんじゃダメでやんすと否定しているからだ。
自分が自分を無視して寂しさを生み、自分が自分を傷つけて苦しみを生んでいる、ただそれだけの話なのであーる。
だからこそ過去の異次元の賢者たちは、自分が自分を無視することなく自分が自分を大事にできるように、貪ることと見栄を張ることはやめとけさかい、と諌めてくれているのではないかしらん。
そして、自分の内側に注意を向け、見えた自分を受け入れてあげられるのは、ガチのムチでガチのムチな話、この世に自分しかいない。
自分が今の世界をどのように見ているのか、どのような感情を抱いているのか、どのような思いを起こしているのか、どのような想像をしているのか、そういった実際の自分を見てあげられるのは世界に唯一自分だけであり、だからこそ自分自身が自分をしかと見て、実際の自分を受け入れていく必要がある。だからこそ自分は自分にとって絶対に大事にということにもなる。
私が他人の内面をしかと見ることができないように、他人は誰も私の内面を見ることができない。少なくとも自分ほどには見ることができない。
世界で唯一、自分の多様な側面を直に見てあげられて、直に受け入れてあげられるのは本当に自分自身だけなのである。
仮に他人にできたとしても他人は部分的なり間接的なりに見てくれたり受け入れてくれるのが関の山で、より実際的な話をすると、他人は他人で自身の「人から認められたいイッメージ」の構築とプロモーション活動に忙しく、注意自体が外側に向いているために、自分自身の内面や他人の内面どころではない。
となると、ますます実際の自分を見て、受け入れてあげられるのは自分自身だけということになってくるのでござる。
他人にこういう人間として見られたいというイッメージ上の自分ではなく、実際の自分、善良でもあり邪悪でもあり美麗でもあり醜悪でもあり優秀でもあり劣悪でもあり寛容でもでもあり冷酷でもあり気前が良くもありケチくさくもあり平和的でもあり好戦的でもあり純真でもあり変態的でもあり賢明でもあり愚劣でもある自分、そういった良いも悪いも混合一体となっている実際の自分に注意を向けられるようになり、ちゃんと見ることができるようになり、1つひとつの側面を正当化することもなく否定することもなく、ただただ自分にはこういう側面があるでござるなー、と受け入れていく。
こういういったことができていけば、自分が自分に無視されることもないので寂しさは瘉えていき、自分が自分を傷つけることもないので苦しみは生じなくなる。
結局、自分がどれだけ自分を大事にしていけるのか、ということになる。
そのための「貪るな、見栄を張るな」ということ、そう考えると過去の異次元の賢者たちの戒めは実にありがたいことになる。
そして、そのような戒めをわかっているにも関わらず、私たちはどうしても快楽を求めて貪ってしまう、見栄を張ってしまう。
その時は、刹那的な快楽を求めて貪っている自分、世間的価値という記号をかき集めて見栄を張ろうとしている自分、というものに気づいて、そういう自分を否定することもなく正当化することもなく、やっちゃってるねー、とただただ自分を見る。
そうすることによって自分を自分で見てあげているということになる。
そうして、んじゃあ、自分を見てあげてさえいれば何をやってもいいんだ、と段違いな勘違いをして、いくらでも欲に流れ、見栄を張り続けてもいいんだと、過去の異次元の賢者たちが悪であるからやめておけと諌めているものを正しいものに変換してしまう自分、何事も自分の都合の良いように解釈し、正当化してしまう自分にも気がつくことになる。
それもまた自分を見てあげているということになる。
自分の悪の側面を見てあげているということになる。
こうして自分の良い側面も悪い側面もしかと見、受け入れていく、結局これの繰り返し。
よーし、今日は刹那的な快楽を貪り食う自分をちゃんと見て受け入れるためにあえて刹那的な快楽を求めに行くぞ。とりま、ガールズバーと風俗にレッツラゴー。あとはパチンコとタバコと酒も忘れないようにしよう。やったるど。負けへんど。
声出して切り替えていこうと思う。