世俗の生活の中で、私欲にとらわれて現実の利害にふりまわされているのが、われわれである。起伏の多いその波間にゆられて喜んだり悲しんだり、しかしその水底の静かな深みを知るものは少ない。
われわれが日常生活のなかで認識する価値概念はすべて相対的なものである。それを絶対的なものと考えて固執するところに、人びとのあわただしく悲しいうごめきがある。
私たちは自分の価値や自分の大事さというものが、世間的価値の有無や種類や量によって決まると考えてしまっている。
例えば、お金があればある分だけ自分には価値があり、お金がなければない分だけ自分には価値がないと考えてしまう。
実績があればある分だけ自分には価値があり、実績がなければない分だけ自分には価値がないと考えてしまう。
だから私たちは価値のある人間になるために、より厳密に言うと、価値のある人間として他人に認めてもらうために世間的価値(金、地位、名声、権力、ブランド品、美貌など)をかき集め、それらの世間的価値によって自分を価値のある人間として規定しようとする。
そのような世間的価値は自分を「価値のある人間」として規定してくれる記号なり象徴なりレッテルのようなもので、それらはいわば、人間が勝手に作り出した概念でしかない。人間が自分たちの都合よく作り上げた妄想でしかない。
だから私の亡き愛犬にはそれらの記号が一切通用しない。愛犬はササミ肉が好きだったが、その他の犬が所持しているササミ肉のブランドや量で犬の価値を測るようなこともなければ、血眼にしてスーパー各所、肉屋各所を巡り、ササミ肉をかき集めるようなこともしなかった。
しかし、私たちはどうしても「他人に自分を価値のある人間だと証明してくれるような記号」に囚われて、それらの記号を絶対視してしまい、それらの記号をもって自分の価値を規定しようとし、それらの記号を必死にかき集めようとして右往左往一喜一憂している。
それらの記号をもってして、誰が上なのか誰が下なのか、誰が勝者なのか誰が敗者なのか、誰が認められて誰が認められていないのか、誰が得をして誰が損するのか、誰が正しいのか誰が間違っているのかを規定しようとし、日々の喜悲劇を演じている。
世間的価値という記号は諸行無常の理によって相対的で必ず変動する。あったりなかったりするし、増えたり減ったりするし、その意味が変質したりする。
まさに起伏の多い波間。
そのような不安定なもので自分の価値が決まるとガチのムチで思い込んでいるために、いつまでも心から安心することができない。
だから際限なく記号を追い求めてしまう。
そしてどんなに記号をかき集めたと思い込めたとしても、結局最後には諸行無常の理によって全ての記号を失う。
だがしかーし、実際にはそのような記号で自分の価値は決まらない。
記号は相対的な価値しかに過ぎず、ただの概念遊びでしかない一方で、自分の価値、自分の大事さというのは記号とは関係なく絶対だからだ。
実はそのような記号や概念とは無関係に、自分の価値や大事さというものが、まさに「水底の静かな深み」のごとく、すでに絶対的に存在しているのであーる。
私たちはそのことに気がついて、大事な自分を大事にしていくだけでいい。
すごくシンプルだ。
一方には、諸行無常の理によって一定ではない記号がある。そしてもう一方に絶対的に一定の自分の価値(自分の大事さ)がある。
日々の苦しみは、私たちが絶対に一定ではない「記号」と絶対的に一定である「自分の大事さ」を区別することなく、記号の価値と自分の価値が連動するものだと段違いな勘違いをし、実際に記号の価値と自分の価値を結びつけ、連動させているために起こる。
記号は記号、自分の大事さは自分の大事さとしてガチのムチで区別し、記号中心ではなく、自分の大事さ中心で日常を送ると日々が安定してくる。
記号の種類や有無や量とは関係なく、自分は大事なのだから自分を大事にしていく。
記号の種類や有無や量とは関係なく、自分の心身や日常生活や身近な人を大事にするために必要なことを無理のない範囲でただただやっていく。
睡眠、自炊、掃除、洗濯、運動、読書、排泄、入浴、歯磨き、瞑想、労働、挨拶、お礼、謝罪。
ただそれだけだ。
記号をかき集めるためには、競争に勝ち、人を見下し、人から認められる必要があり、だからこそ、特殊な訓練や資格や環境や大金が必要になるのだけれど、自分の心身や日常生活や身近な人を大事にするために血みどろの競争は必要なく、特殊な訓練や資格や環境や大金も特に必要ない。
自分の大事さの絶対性に気がつくと人生はいたってシンプルになる。
そして人生の膨大な時間と労力とお金を記号のために費やしてきたのかを痛感し、これからも膨大な時間と労力とお金を記号のために費やそうとしているのかに気づき戦々恐々とする。
何かを手に入れようとしている時、それは人に自分の価値を認めさせ、人から大事にしてもらおうとして、そのものを「記号」として手に入れようとしているのか、自分が自分を大事にするためにそのものを手に入れようとしているのか。
何かをしようとしている時、それは人に自分の価値を認めさせ、人から大事にしてもらおうとして、その行為を「記号」としてやろうとしているのか、自分が自分を大事にするためにその行為をやろうとしているのか。
記号中心の生活をいきなりすっぱりやめることは難しいかもしれないが、少しずつ離れていくだけでも全然違う。
そして記号中心の生活から離れるためには、使っていないものを捨てる習慣が必要になる。
私たちは人に自分の価値を認めさせ、人から大事にしてもらうために「記号」としてものを買いすぎている。
そこで持ち物を自分が使っているものと使っていないものに分け、使っていないもの(そのほとんどは「記号」として買っているものだ)を捨てる。つまり、余分な「記号」を捨てていく。
使っていないものを捨てる過程で、自分がいかに「記号」に執着しているのか、「記号」をかき集め続けてきたのか、そういったことが段々とわかってくる。
諸行無常の理によってもう12月だ。
持ち物をこの1年で使ったのか使っていないのかによって分類し、使っていないものを捨てまくり、記号の呪縛を薄めた上で、新年を迎えようと思う。
声出して切り替えていこうと思う。