「しかし、実際には私は何もしていません」ジョージが声をあげた。「(略)私は何もしていません。だれにも指一本触れていません。」
「しかし、あなたは何かをした」私はこう答えた。
「何をしたっていうんです?」
「悪魔と契約した」
「しかし、あれは何かをしたってことにはなりません」
「そうですかね」
「そうですよ。わかりませんか。これは、全部、頭のなかのことです。私の想像がでっちあげたつくりごとです。(略)」
M・スコット・ペック『平気でうそをつく人たち』
私たちが「何かをした」という時、それは実際の発言や行動のことを指すことが多く、心の中で思っていること、想像していること、抱いている感情というのは「何もしてない」とみなすことが多い。
しかし、自分の内側で起こっていることはそれはそれで事実として起こっているのだから、「何もしていない」ということには決してならない。確実に何かをしているということになる。
たとえば、自分が気に食わない人に会ったとして、その人のことを殴りたいと思う。しかし、実際には殴っていない。
この時に、実際に相手を殴ってはいないので、人に説明する時は「私は何もしていない」ということができる。そして司法上も「私は何もしていない」ということになる。
しかし、自分の内側で相手を殴りたいという思いが逆巻いているというのもまた事実だ。
心の内側では相手のことを思い浮かべ、相手をフルボッコにしていることを想像しているかもしれない。
このように私たちは自分の内側で起こっている思いや想像、これらを無視して、外側の行為のみを問題にする傾向がある。
しかし、私たちは自分の内側でも確実に何かをやっている。外に見えるものだけが行為ではない。
行為には自分の外側の行為と内側の行為がある。
外側の行為によって何かが引き起こされ、それが自分の世界を作る。
(実際に相手を殴ったら、警察に逮捕される、相手との信頼関係が一気に崩れる、暴れん坊将軍というレッテルを貼られるなどの結果を引き起こす)
そして、内側の行為も同様に、それによって自分の世界を作る。
(自分が気に食わない相手を殴るため、人から気に入られないと殴られるのではないか、痛い目に遭わされるのではないかと何かにつけて不安や恐怖を抱くようになる、そして殴られたり、痛い目に遭わないように誰からも気に入られるような善人を演じるようになる)
そして、自分の内側でやっていることの方が、自分の外側で行っていることよりも多く、自分の内側の行為が自分の世界を作り上げていく。
(外側の行為というのは内側で起こっている行為の一部がそのまま、あるいは形を変えて表に現れたものでしかないからな)
このことに気が付かずに、外側の行為のみを行為とみなし、内側の行為を無視していると、つまり、外側の行為だけに注意し、内側で起こっていることを無視したり、正当化していると、知らず知らずの内に、内側の行為によって苦しみの世界を作ってしまうことになりかねない。
外側の行為として何もしなければ、つまり、外見上、人畜無害な善人であれば(司法上、無罪の人であっても)、何も悪いことは怒らないはずだ、何も苦しみは生じないはずだ、何も問題ないはずだと思い込んでいたとしても、内側の行為として邪悪で醜悪で暴力的で残酷で傲慢で狭量な思いを起こしているのであれば、それによって苦しみの世界が形作られ、その世界の中で苦しみのループにはまり込んでいくことになる。
外面だけでの因果関係しか思い描いていないために、「何で(外見上何も悪い行為をしていない)善人の私がこんなに苦しまなければならないんだ! 全部お前のせいだ! 社会のせいだ! 政府のせいだ! あの団体のせいだ! あの芸能人のせいだ!」と、自分の内側の行為を省みることなく、自分の苦しみの原因を全て他人の中に見出そうとしてしまう。(そしてその行為自体がまた苦しみのループの一部になる)
んじゃあ、自分の内側に注意を向けてみると、自分がいかにとんでもない思いや考えや想像をしているのかということに気がつく。
それらの自分がどうしても抱いてしまう思いや考えや想像は、自分が自分だと信じたい(あるいは思い込んでいる)「善良な自分」というイッメージと明らかにかけ離れていることに気がつく。
そしてその自分こそが、「自分が自分にとって都合よく思い描いている単なるイッメージとして自分」ではない実際の自分であり、善良な側面だけではなく邪悪な側面も併せ持つ現実の自分なのであーる。
あとはそれを事実として少しじつ受け入れていくだけだ。
邪悪な人たちの特性となっているのは、本質的には、そうした人たちの罪悪そのものではない。彼らの罪悪の名状しがたさ、その持続性、その一貫性である。これは、邪悪な人たちの中核的な欠陥が、罪悪そのものにではなく、自分の罪悪を認めることを拒否することにあるからである。
M・スコット・ペック『平気でうそをつく人たち』
自分の邪悪な側面、自分が心の内側でどうしても行ってしまう罪悪、その事自体が問題ではなく(問題ではないからといって正しいというわけではない)、自分の邪悪な側面や罪悪を認めずに、自分のきれいなイッメージに執着し、いつまでもしがみつこうとすることが真の邪悪性であり、それが苦しみの原因になる。
自分の悪を直視し、正当化することなく、寛容に受け入れていく。
悪を含む自分を正当化することなくそれでも大事にしていく。
そうすると悪を含む他人のことも大事にできるようになる。
(逆に、悪を含む他人を大事にしていくことで、悪を含む自分を大事にすることができるようになる)
すると苦しみのループから離れ、次はいい感じのループにはまり込んでいく。
そのループの中では、自分が大事にし、大事にされる世界ができあがる。
不完全で、純度100%の清廉潔白な人間ではない悪人の側面を持つ自分を正当化することなく受け入れられるかどうか、そしてそういう不完全な自分を見捨てることなく大事にしていけるかどうか、具体的には日常生活において睡眠や家事や運動を通して自分が自分のために動いて自分自身を整えてあげようとすることができるかどうか。
(そしてたとえそういうことができなかったとしても、そのような自分の側面をも正当化することなく受け入れることができるかどうか)
結局、そういうことになってくる。
声出して切り替えていこうと思う。