「偉大な」人たち――その偉大さが善に向けられていようと、悪に向けられていようと――を特徴づけているものは、そのきわめて強力な意志だと私は考えている。(中略)キリストの意志はその父である神の意志であるが、ヒトラーのそれは彼自身の意志である。その最も大きな違いは、「喜んで従おうとする意志と、我を通そうとする意志」の違いである。この服従を拒否する意志、我を通そうとする意志が、悪性のナルシシズムの特徴となっているものである。
M・スコット・ペック『平気でうそをつく人たち』
私たちは日々ヒットラー先輩のごとく我を通すことに必死だ。
「我を通す」というのは自分の完全性を証明しようとすること、自分のきれいなイッメージを崩さないようにしようとすることだ。
ネバギバの精神で証明しようとしてる自分の完全性やきれいなイッメージの重要な要素に「正しさ」というものがある。
何かを正しいかどうかを判断するためには、ものさしとして正しさの基準が必要なのだけれど、キリスト先輩の場合、その正しさが自分の外にある。つまり、キリスト先輩の親父さんである神にある。そして、キリスト先輩はその自分の外側にあるものさしに素直に従っていこうとする。
正しさのものさしは自分の外にあり、それに快く従おうとする。
そしてそれに従おうとすると、正しくない自分が見えてくる。
どうしてもその正しさに沿えない自分、その基準から反れてしまっている自分が見えてくる。
そうして自分自身の正しさが崩れることもあれば、自分の悪が知らされてくることもある。
だがしかーし、持ち前の強力な意思で、見たくない自分を見ないようにするために自分が従うべき基準を変えるようなことはしない。
基準を変えることなく、常にその基準に従って生きていこうとすることで、その基準により自分には間違っている側面があるということ、自分には悪の側面があるということが延々と知らされ、見せつけられ続けることになる。
そして、持ち前の強力な意志で見たくない自分と向き合い続けることによって、深い反省が生まれ、自分の不完全性や間違いや悪を受け入れられるようになる。
自分の間違いや悪を受け入れることができているため、他人の間違いや悪も受け入れることができ、無論オムロン、基準とするものさしは変わっていないので、自分や他人の間違いや悪は正当化されることなく、間違いは間違いとして悪は悪として捉えられ、そのままなのだけれど、自分や他人に対して寛容になることができる。
これがキリスト先輩的なパッターン。
一方で、ヒットラー先輩の場合、正しさのものさしが自分の中にある。
ヒットラー先輩の場合、「自分が正しい」となっている。
自分自身が正しさそのものになっている。
自分の正しさが世界の正しさであり、自分の常識が世界の常識であると思い込んでいる。
自分自身が正しさそのものなので、自分の中の間違いや悪は全て正当化され正しいものになってしまう。間違いや悪はあってはいけないことになっている。
だから、自分の正しさにそぐわないもの、自分の正しさを揺るがすようなものは間違いであり悪とみなし、持ち前の強力な意志でそれらを抹殺しようとする。
物事は正しい自分の思いどおりになることが当然であり、物事が思いどおりにならなかったら怒り、妬み、嫉み、恨み、辛みの感情を爆発させる。
自分の正しさ、自分の常識にそぐわない存在を悪とみなし、そのような悪を苦しめて消し去ってしまえば、自分の正しさが証明され、正しい自分というイッメージが脅かされることがない理想的な世界ができあがると思ってしまう。
そのために持ち前の意志で凄まじい努力をし、自分の正しさにとって都合のいい世界を作り上げようとする。
これがヒットラー先輩的なパッターン。
強力な意志や凄まじい努力というのはものすごく価値のあることだと思うのだけれど、方向性を見誤ると膨大な時間と労力を空費することになり、その結果、苦しみの無限ループにはまり込むというむしろ最悪な結果を招きかねない。
従うべきものさしを自分の外に持ち、それを変えることなく、それによって映し出される不都合な自分の姿から逃げずに、受け入れる努力をしてくのか、自分を正しさのものさしとし、常に自分は正しいものとしてできるように自分の都合によってコロコロとものさしを変え、不都合な自分の姿から逃げ続ける努力をしていくのか。
同じ努力であっても、それが注がれる方向性によって結果は大きく異なってくる。
こう考えると、ヒットラー先輩を手放しで愚弄したり馬鹿にしたりすることはできない。
自分にも確かにヒットラー先輩的な側面がある、物事を自分の都合の良いように捉え、都合の良い自分のイッメージを他人に証明しようとする側面がある、自分にとって都合の悪い存在の消滅を願う側面があるからな。
そしてそのことに気がつくと、キリスト先輩あるいはゴータマ・シッダールタ先輩、その他同類の先輩方がいかに凄まじいかもわかる。
自分が思い込んでいる「きれいなセルフイッメージ」とは全く異なる側面をちゃんと見る、見続けていくことから逃げないこと。逃げてしまうのは苦しいからで、苦しいのは「きれいなセルフイッメージ」という幻想に執着してその側面を否定してしまうからだ。
つまり、自分の「きれいなセルフイッメージ」を必死にアッピールしようとしているということは、その分だけ自己否定が強いということになる、苦しみが大きいということになる。
こんな自分はダメだぽよ、と自己否定をして苦しいから、自分にはあたかもそんな側面(自分が実際には否定している自分の側面)がないような「きれいなセルフイッメージ」を作り上げてアッピールしようとする。
だから、キリスト先輩やゴータマ先輩は、我々パンピーから見ると面倒臭いと思う人のことも、その苦しみを理解して、憐れむことができるのかしれない。
他人を傷つけてまでも自分の正しさを必死にアッピールしている人を見て、いかにそれがヒットラー先輩と同じ姿であり、何よりも自分自身と同じ姿だと思えるか。いかにそれがやべぇ行いなのか。
いや、まいったね。
声出して切り替えていこう。