おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

お金に余裕ができにくのはなぜなのか

 

浪費は満足をもたらす。理由は簡単だ。物を受け取ること、吸収することには限界があるからである。身体的な限界を超えて食物を食べることはできないし、一度にたくさんの服を着ることもできない。つまり、浪費はどこかで限界に達する。そしてストップする。

 

しかし消費はそうではない。消費は止まらない。消費には限界がない。消費は決して満足をもたらさない。

 なぜか?

 消費の対象が物ではないからである。

 人は消費するとき、物を受け取ったり、物を吸収したりするのではない。人は物に付与された観念や意味を消費するのである。

 

消費者が受け取っているのは、食物という物ではない。その店から付与された観念や意味である。この消費行動において、店は完全に記号になっている。だから消費は終わらない。

國分功一郎『暇と退屈の倫理学

 

お金に余裕ができにくい理由

 

私たちに金銭的な余裕が生まれにくい原因は、以下の2つだ。

 

(1)使わないものにお金を使っている

(2)記号や観念や意味といった漠然としたものにお金を使っている

 

使わないものにお金を使っている

 

私たち一人一人の時間と労力は無限ではない。

 

必ず限りがある。

有限である。

 

ものを使うためには必ず時間と労力が必要になり、私たちの時間と労力は有限なのだから、私たちが使うことができるものの量にも必ず限界がある。

 

また、時間や労力以外にも、私たちには身体的な限界もある。

年収が10倍になったからといって、一人の人間が1回の食事で摂取できる食事の量は変わらない。

 

一人の人間が1日に使うことのできる靴の量は変わらない。

 

万が一変わったとしても、絶対に10倍にはならない。

 

よって、私たちに身体的な限界がある以上、受け取ることができる量、吸収することができる量、使うことができる量には限りがある。

 

そのような限界があるにも関わらず、私たちはその限界を無視して、使わないものにお金を使っているし、使おうとする。

 

自分が実際に使わないもの、使うことができないものにお金を投じていると、自分が使わないもの・使うことができないものの量には限りがないため、無限にお金が出ていくことになる。

 

そうなるとお金に余裕ができないのは当然であーる。

 

そしてそもそも「もの」というのは使わなければ意味がない。

 

「使わない」ということは「持っていない」のと同じで、「持っていない状態=使っていない状態」からお金をかけてものを手に入れ、結局「使っていない」わけだから、お金をかけて「使っていない状態」から「使っていない状態」になっていて、お金がただただ流出しているだけだ。

 

・自分の時間と労力には限りがある

・自分が使うことができるものの量には限りがある

・ものは使わなければ持っていないのと同じ

 

これら3点に気がつき、これら3点を日常の大前提とすることができれば、使わないものへの出費が一気に減り、その分お金に余裕ができやすくなる。

お金だけではなく、時間や精神的な余裕も生まれやすくなる。

 

・自分の時間と労力には限りがある

・自分が使うことができるものの量には限りがある

・ものは使わなければ持っていないのと同じ

 

これら3点はガチのムチで大事なことなので、自称有能な脳髄で理解するだけではガチのムチで不十分で、心身全身に刻みつける必要がガチのムチである。

 

上記3点をガチのムチで心身全身に刻みつける習慣が以下の2つである。

 

・使っていないものは捨てる

・捨てたくなければ使う



使っていないものは捨てる

 

まずは自分の身の回りのものを「使っているもの」と「使っていないもの」に分ける。

 

そして「使っていないもの」を捨てていく。

 

具体的には「ここ1年の間使っているか使っていないか」を基準にして身の回りのものを区別するのがいいかもしれない。

 

ものを捨てるための基準として「必要か不要か」というものがあるが、「必要か不要か」というのは頭の中での思い込み、想像、妄想の類でしかないため、いくらでも正当化でき、無駄を見分けるモノサシとしては曖昧すぎるさかい。

 

本当は長年使ってもいない、触れてもいない、手にとってもいない、眺めてもいないもの、それがなくても生活が楽勝で成り立っていたものでも、頭の中で「必要だぽよ」といくらでも言い訳が可能で、無駄を無駄だと認識しないようにできてしまう。

 

しかし一方で、「使っているのか使っていないのか」という基準は現実の出来事なので、無駄を見分けるモノサシとして明確かつ明快だ。

 

答えはYESかNOしかない。

 

「使っていない」ということがわかったら、それは無駄なものということなので捨てる。

 

買う時には「欲しい」「必要」「使うだろう」と頭の中で思い描き、実際には使っていないという結果となり、その分のお金を無駄にしている現状があるのだから、そもそも頭の中でしか完結しないことをむやみに信用しないほうがいい。

 

我々の脳髄は何らかの因果によって金を無限に使ってしまうように設定されてしまっているのである。

 

よって定期的に実際に買ったもの・手に入れたものを使っているのかどうかを確認し、思考と現実と照らし合わせ、答え合わせを行い、現実離れした思考を現実に近づくようにチューニングする必要がある。

 

そしてそのチューニングは使っていないものを実際に捨てることによってのみ実行することができる。

 

使っていないものを実際に捨てることによって無駄を反省でき、同じような無駄を繰り返さないように心がけることができるようになる。

 

使っていないものを捨てることによって、使っていないものがなくなったとしても、生活に一切の支障がないということに気が付く。(そもそもそれらは普段から使っていなかったのだから、支障が出るはずがないぜベイビー)

 

そうして、「使っていないということは持っていないことと同じである」ということに気が付くことができる。

 

逆に捨てなければ、チューニングが行えないので、思考は現実離れしたままで、延々と使わないもの=無駄なものをかき集め続け、大切なお金を無自覚にドブに捨て続けることになる。

 

捨てたくなければ使う

 

何かを捨てようとすると、捨てたくないという気持ちが起こってくるが、捨てたくないのであれば、捨てたくないものを実際に使えばいい。

 

使っていないものを捨てるわけだから、使っているものは捨てる必要がない。

 

よって、捨てたくなければ使えばいい。

 

しかし、大抵の場合、捨てたくないものを全て使おうとすると、自分の時間や労力が圧倒的に足りないということに気づく。

 

そうして自分が実際に使うことができるものの量には限りがあるということを痛感することができる。

 

そして捨てたくないものを使おうとして、使うことができないと判明した場合は捨てる。

 

このように「使っていないものは捨てる」、「捨てたくなければ使う」ということを繰り返していくと、自然と「自分の時間と労力には限りがある」、「自分が使うことができるものの量には限りがある」、「ものは使わなければ持っていないのと同じ」ということが心身全身に刻みこまれることになる。

 

そうなるともはや「使わないもの」「使うことができないもの」にお金を使うことが激減し、その分お金に余裕ができるようになるのであーる。

 

記号や観念や意味といった漠然としたものにお金を使っている

 

私たちは「自分の時間と労力の限界」、「自分が使うことができるものの量の限界」、つまりは「自分の身の丈」に気がついておらず、自分の身の丈を越えてものをかき集めようとしているのだけれど、そういう身の丈を越えてかき集めようとしているものには共通点がある。

 

同じ「かき集める」にしても、着ることができない量の服、読むことができない量の本を意識的であろうと無意識的であろうとかき集めている人はいても、使うことができない量のシャワーホースや便器をかき集めている人はおそらくいないだろう。

 

私たちが身の丈を越えてかき集めているものの共通点は「不特定多数の人間によって価値が認められているもの」だ。

 

端的にいうと「自分を価値のある人間と定義してくれるもの」ということになる。

 

そしてそれらは言い換えると「記号」や「観念」や「意味」ということになる。

 

私たちは根本的に「寂しさ」というもの抱えていて、その寂しさというのは「自分を大事にして欲しい」「自分の存在を認めて欲しい」「自分のことを見て欲しい」「自分のことを気にかけて欲しい」「近づいてきて欲しい」「話しかけて欲しい」「無視されたくない」「粗末にされたくない」みたいな感じのニュアンス的な雰囲気っぽい感情のことだ。

 

そして私たちは「他人から価値のある人間として見てもらえれば、他人は自分のことを大事にしてくれるだろう」、「他人に自分の価値をアッピールして証明すれば、自分の存在を認めてくれるだろう」、「他人に自分の価値を認めさせれば、他人は自分のことを気にかけてくれるだろう」みたいな感じのニュアンス的な雰囲気っぽいことを考えて、「価値のある自分」というセルフイッメージを作り上げてくれそうなものをかき集め始める。

 

つまり私たちは、「価値のあるもの」をかき集めて「価値のある自分」というものを他人に証明し、そうして他人のほうから自分のほうへ近づいて来てもらい、他人から大事にしてもらうことで自分の寂しさを解消しようとしているのであーる。

 

例えば、ある人は寂しさから「グルメな人」になろうとし、自分のことを「グルメな人」と定義してくれそうなものをかき集め始める。

 

自分に「グルメな人」という「記号」や「観念」や「意味」を付与してくれるものをかき集める。

 

人から「グルメな人」と思われるような「記号」や「観念」や「意味」を付与してくれるものをかき集める。

 

グルメっぽい食事、グルメっぽい店、グルメっぽい写真、グルメっぽい習慣、グルメっぽい人間関係、グルメっぽい情報等々をかき集め始める。

 

その人の目的は、満腹になることではない。

食べたものを吸収することではない。

 

その人の目的は「私はグルメな人間だぽよ」というセルフイッメージを強化し、証明し、確認することにある。

「私はグルメな人間だぽよ」という価値を証明し、他人から大事に思ってもらうことが目的だ。

 

そしてこの寂しさ故の「セルフイッメージ」や、その「セルイッメージ」を強化・証明・確認するための「記号」や「観念」や「意味」というのは形をもたない(ただの独りよがりの曖昧な概念だからな)。

 

そしてそれら曖昧な概念は形を持っていないが故に、時間や労力や身体的な限界が存在せず、それら曖昧な概念のための消費には歯止めが効かない。

 

曖昧な概念は時間や労力の限界や身体的な限界とは関係なくかき集め続けることができる。

実際に使ったり、吸収したりする必要はない。

 

自分なりに「グルメな自分」というイッメージを作り上げることができればいいのである。

 

だから、買って手に入れたら、食べずに捨てるということが楽勝でできる。

 

だがしかーし、ここには大きな誤りがあって、仮にどんなに「私はグルメな人間だぽよ」ということを他人に証明できたとしても、その他人は自分のことを心から大事に思ってくれるわけではない。

 

他人は自分のグルメ情報に価値を見出しているだけで、自分の話にきちんと耳を傾けてくれたり、自分の内面を知ろうとしてくれたり、自分の醜い側面を受容してくれたり、自分に時間や労力や心をかけてくれたりするわけではない。

 

だから一向に寂しさは解消されない。

 

そして「もっとグルメな人間になれば、もっと自分の価値を他人に証明することができるようになれば、次こそは人は自分のことを認めてくれる、大事にしてくれる」と思い、ますます「グルメな人」と思われるだろうと思われる「記号」や「観念」や「意味」を付与してくれるものをかき集めることにネバギバの精神で邁進する。

 

グルメっぽい飯にお金をかけては、ほとんど食べずに捨てるということをネバギバの精神で繰り返していく。

 

こうして私たちのお金(だけではなく時間と労力)は寂しさの解消という当初の目的を一向に果たすことなく、不毛に空費されていく。

 

寂しいままで、金はなくなる一方である。

 

んじゃあ、どうすればいいのかというと、ここでも「使っていないものを捨てる」という習慣が効果を発揮する。

 

まずは持ち物を「使っているもの」と「使っていないもの」に分ける。

そして「使っていないもの」について考えてみる。

 

自分はこれを手に入れて、どのような自分を演出しようとしたのかしらん。

他人からどのように見てもらいたくて、これを手に入れたのかしらん。

 

そうすると、「グルメな人と思われたかった」「金持ちと思われたかった」「おしゃれな人と思われたかった」「知的な人と思われたかった」といった感じで、自分が他人に与えたかった印象、今でも与えたい印象、自分が他人から思われたかったセルフイッメージ、今でも与えたい印象が見えてくる。

 

そして、そう思われてどうしたいのかしらん、ということについても考えてみる。

 

そうすると、最終的には人から羨ましがられたい、人からチヤホヤされたい、人から一目置かれたい、人から近づいてきてもらいたい、人から話しかけられたい、自分の話を聞いてもらいたいという感情があることに気づく。

 

これが寂しさだ。

 

この寂しさ故に私たちはものを使えないほどにかき集めるのだから、この寂しさを解消すればよい。

 

この寂しさというのは、他人から自分の内面を見てもらい肯定してもらうか、自分で自分の内面を見て肯定するか、いずれかの方法で解消されるのだけれど、使っていないものを捨てていくと、これまで「もの=自分の心の外側」に注ぎ込まれていた自分の注意が、自然と自分の内面に向くようになってくる。

 

外のものへの囚われが減ってきて、自分の内側に視線を向けられるようになってくる。

 

自分の内面に注意を向けられるようになると、自分の醜い部分もより鮮明に見えてくるようになるのだけれど、この時に大切なのは「こんなに醜い心がある自分はダメだぽよ」と自己否定しないことだ。

 

その醜い側面も自分の大事な一部であるため、寛容に受け入れていく必要がある。

 

むしろ、それまで「価値のある自分」というものを演出するために頑張っていたのは、自分の醜い側面=価値のない側面を受け入れきれずに否定していたからだ。

 

「こんな醜悪な価値のない自分ではダメだぽよ、そうではなくてこういうきれいな価値のある自分でないといけないぽよ」という自己否定から「グルメな自分」なり「おしゃれな自分」なり「金持ちの自分」というイッメージをアッピールすることに奔走していたのであーる。

 

よって、使わないものを捨て、内面を自分で注視できるようになり、自分のありとあらゆる側面に対し寛容になればなるほど、寂しさが解消され、心は安定し、「価値のある自分」というイッメージをアッピールする必要も感じなくなってくる。

 

そして、寂しさが薄まってきて「価値のある自分」というイッメージをアッピールする必要がなくなってくると、「価値のある自分」というものを規定するための漠然とした「記号」や「観念」や「意味」といった概念類をかき集めることもなくなり、その分、お金に余裕ができやすくなる。

 

まとめ

 

・使っていないものは捨てる

・捨てたくなければ使う

 

これらに日常的に心がけ、これらを習慣にしていくと

 

・自分の時間と労力には限りがある

・自分が使うことができるものの量には限りがある

・ものは使わなければ持っていないのと同じ

 

ということに気がつき、使わないものへの消費が減る。

 

そして、自分の内面に注意を向けることができるようになり、そうして寂しさが解消され、「自分の価値」をアッピールするための漠然としたものへの消費が減り、その分、生活が安定し、お金に余裕ができやすくなる。

 

私たちは使えないほどのものをかき集めることによって不安を解消しようとしてしまうが、実はそれこそが不安定な生活や心の不安を引き起こしてしまう。

 

自分がきちんと使えるものの量をわきまえてその量の範囲内で生活する。

これこそが安定した生活や心の安定に欠かせない心がけなのである。

 

声出して切り替えていこうと思う。