ストレスとは善の試金石ともいうべきものである。真の意味で善良な人間とは、ストレス下にあっても自分の高潔さ、成熟性、感受性、思いやりを捨て去ることのない人のことである。高潔さとは、状況の悪化に反応して退行することなく、苦痛に直面して感覚を鈍らせることなく、苦悩に耐え、しかもそれによって影響を受けることのない能力である、と定義することができるかもしれない。
M・スコット・ペック『平気でうそをつく人たち』
真の意味で善良な人間というのは、ストレス下にあっても高潔さ、成熟性、感受性、思いやりを捨て去ることがない人である。
まずはこれは「善のものさし」とする。
自分で自分の心の内側を見つめた際、そのものさしを使って自分には善の部分があるのか、善とは真逆の部分、悪の部分があるのか、善とも悪とも言えない部分があるのかを見ていく。
ある種のストレスに晒された際、劇団四季並の演技力で外面はなんとか保てているかもしれないけれど、内面では善と呼ぶには程遠い感情や思いが実際には湧き起こっていることがほとんどなのではないかしらん。
上に述べた「善のものさし」をあてがうと、悪としか言えないような感情や思いやそこにはあって、自分の悪の側面が見えてくる。
自分に悪の側面があることは正しいことではないし、望ましいことではないのだけれど、あるものはあるのだから仕方がない。自分には悪の側面があるということは事実なのだから受け入れていくしかない。
だがしかーし、私たちは自分のことを純度100%の善良な人間であると信じたいし、純度100%の善良な人間でなければいけないと思い込んでいる。
だから自分に悪の側面があるということをそう簡単に受け入れられない。
そして、こんな側面は自分ではない、こんな側面はあってはいけないとして、自分の悪の側面を無視する、自分の悪の側面を攻撃する。
たとえそれが悪の側面であったとしても、それは紛れもない自分の一側面であるために、無視したり攻撃したりすると、当然自分の心は寂しくなり苦しくなる。
あるいは、このような負の感情は本来自分の感情ではない、あいつのせいで引き起こされたものでやんす、やつらのせいで引き起こされたものでやんす、社会のせいで引き起こされたものでやんす、として、あいつがいなければ、やつらがいなければ、社会が変われば、私は本来の純度100%の善良な人間のままでいられるんでやんす、と他人や社会を責め立てる。
自分の悪を見るのではなく、他人を悪として見て、他人=悪人を責め立てることによって自分はあくまでも「悪の側面が一切ない善良な人間」というところに立とうとする。
(自分には悪の側面は一切ないと思えるからこそ、人を悪と見た時に容赦なく責めることができる。例えば、自分には怒ってしまうという悪の側面があるということを自覚していた場合、怒っている人を見た時、その人を手放しで責めることはできない。自分にも同じ側面があるため、その人を攻撃することは自分を攻撃することになるからだ。攻撃したとしても手加減は少なくともするはずだ)
自分に悪の側面があるからこそ、何らかの縁(ストレスを感じるような状況)がやってきた時にネガティブな感情が湧き起こってくるのであって、本当に悪の側面がなければ、どんな状況にあっても温かい善良な感情、平静で平安な感情しか湧いてこないはずだ。
ポジティブな感情が起こると、これは自分の感情であり、自分に善良な部分があることは認めるのだけれど、ネガティブな感情が起こると、これを自分の感情とは認めず、人のせいにし、自分に悪の側面があることを認めない。
この非対称性、偏り、不調和、不協和音、これらの落差が大きければ大きいほど寂しさや苦しさは増していく。そしてそれらの落差を作り出しているのは他の誰でもなく自分自身に他ならない。
自分のことを善良な人間と思いたいし、思っている自分からすると、自分に悪の側面があるという事実を突き付けられ、それを見せつけられ、それを受け入れていくという過程は確かに苦悩をもたらす。
しかしながら、その苦悩を経なければ自分の悪の側面を受け入れることはできず、そうしなければ、自分の悪の側面、つまり厳然たる自分の一部分を一生無視し、攻撃し、苦しみ続けることになる、あるいは自分の悪の側面を見ないようにするために他人を悪として見て、他人を責め立てるだけの日々になる。
その他人というのも、自分が自分の都合によって勝手に生み出したイッメージでしかなく、自分の想像や解釈や推測の範疇で捉えた相手でしかなく、そのイッメージというのは自分の心から生じているため、そのイッメージを責め立て攻撃するということは自分で自分の心を攻撃するということになり、つまり、他人を責め続けるだけ人生というのは結局自分を苦しめるだけの人生でしかないということになる。
(だから自分を大事にすることと他人を粗末に扱うことは絶対に両立しないということになり、自分を大事にするためには他人を大事にすることが絶対に必要になってくる、他人を大事にすることと自分を大事にすることは同じことになってくる)
そうして「善のものさし」を自分にあてがってみた。
すると、他人に認めてもらいたい善人の自分像とは全く異なる悪の感情なり思いが自分の内面に渦巻いているのがわかる。
初詣という人混みで溢れかえりストレスでしかない空間に自分の身をさらし、自分の内面を見つめてみると、表面からはわからない醜い自分の感情なり思いが見える。
それらの側面はどんなに神社仏閣に頭を下げようが、どんなに初日の出を拝もうが浄化されることはない。自分の内面の厳然たる悪の側面は、何よりも自分自身が正当化することなく責めることなく受け入れていくしかない。
自分は純度100%の善人なんだという現実離れした自意識を、自分の内面=現実に合わせていく作業を繰り返していくしかない。
今年もその繰り返し。
そして見たくない自分を見ないようにするために、時として欲に流れ、非日常に逃避しようとし、時として怒り、他人を責めることによって自分を正当化しようとするだろう。
それらは決して良い行いではないが、どうしようもなくやってしまうだろう。
今年もその繰り返し。
声出して切り替えていこうと思う。