おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

記号と内実

悪は世界を薄っぺらい記号の集まりとしか考えない傾向が強いけれど、善はこの世界が記号の集積でなく、存在する一つ一つにいっぱい内実がつまっていてそれらはどれも取り替え不可能であることを知っている。悪は世界を薄っぺらな記号としか思わないから、世界がパズルかゲームのようにしか感じられない。

保坂和志『人生を感じる時間』

 

「イメージ」「外見」「外向け」といった言葉が、邪悪な人たちの道徳性を理解するうえで重要なものとなる。彼らには善人たらんとする動機はないように思われるが、しかし、善人であるかのように見られることを強烈に望んでいるのである。彼らにとって「善」とは、まったくの見せかけのレベルにとどまっている

M・スコット・ペック『平気でうそをつく人たち』

 

私たちがは基本的に人からどのように思われるか、そのことしか考えていない。

 

いかに人から「価値のある人間」として見てもらえるのか、そのことしか考えていない。

 

そして、自分が「価値のある人間」であることを手っ取り早く証明してくれる記号をかき集め、その記号を手に入れることが幸福だと思っている。

 

人生はいかにその手の記号をかき集められるかというゲームで、いかにそのゲームを攻略できるか、このことしか考えられない。その手の視点しか持ち得ない。

 

自分が「価値のある人間」であることを手っ取り早く証明してくれる記号というのは、金や地位や名声や権力や職業やブランド品や美貌や骨董品や知識やポケモンカードなどで、不特定多数の人間が価値を見出しているものであれば何でも記号になり得る。

 

しかし、それはあくまでも薄っぺらい記号でしかない。表層的な記号でしかない。

 

記号はどうにでも取り替えが可能で、どうにでも取り繕うことができる。

 

資産10億円という記号は、その10億円を誰かにあげれば、その記号を譲渡することができる。あるいは実際に10億円を持っていなくても、おれは10億円を持っているとウソをついて瞬時に取り繕うことができる。

 

あるいは「部長」という記号は、自分が誰かから付与された記号であり、辞職や定年と同時にその記号は自分のもとを離れ、また別の誰かへ付与されることになる。あるいは実際に部長でなくても、おれは部長なんだとウソをついて瞬時に取り繕うことができる。

 

そのような記号とは別に内実というものもあり、内実はどうにも取り替えができない。

 

私は資産10億円を持っていない。

そして、今、資産10億円を手に入れたとする。

 

10億円という記号を持っていない状態から持っている状態になった時、私の内実は変わったのかというと何も変わらない。

 

10億円という記号があってもなくても自分の思考パッターンや自分の内面やそこからわき起こってくる感情や思いや考えは変わらない。

 

10億円という記号により、人からの見られ方は変わるかもしれないが、自分の内実は変わらない。一瞬はごまかせるかもしれないが、内実からにじみ出てくるものはどうにも誤魔化すことができない。

 

そしてその内実、自分の中にある思考パッターンや多様な感情や思いや考えは、記号のように人にそっくりそのままわたすこともできないし、人のそれと交換することもできない。

 

自分の中では変えていけるものだけれど、自分の中にただあるものなのでどうしようもない。

 

自分が「価値のある人間」であることを手っ取り早く証明してくれる記号をかき集めることしか眼中にないということは、自分の内実を無視していることになる、他人の内実を無視していることになる。

 

その手の価値観の人は、とにかく表層的な記号が第一であり絶対であり、自分のことを価値のある人間として証明してくれるような記号を手に入れ、人が自分のことを価値のある人間として見てくれさえすればいい、人から価値のある人間として見てもらえさえすればいい、人に自分の価値を認めさせることできさえすればいいと考えている。

 

自分は本当はどう感じているのか、相手は本当はどう感じているのか、そのようなことは考えない。自分や相手の内実に目を向けることはない。万が一目を向けることがあったとしても、それは自分に都合のいいものだけに目を向ける。内実ではなく、自分が「価値のある人間」ということを証明してくれるような記号、これが全てだとしか思えないのだから仕方がない。

 

記号中心の人は世界を表層的にしか捉えられない、記号的にしか捉えられない。

内実を無視しているので、苦しい。恨み妬み嫉み辛み怒り憎しみといった醜い感情で溢れかえっており、苦しい。そのような内面は見せることができない。そのような内面を人に知られたら、人から認めてもらえないと思ってしまう、人から見捨てられて、嫌われると思ってしまう(それは自分自身が醜いものを認めないし、見捨てるし、嫌うからだ)、だから必死に記号で表層を飾ろうとする。

 

吉田兼好先輩は『徒然草』で人生は春の日差しの中で溶けていく雪だるまを飾り立てるようなものだ、みたいな感じのニュアンス的な雰囲気のことを述べられていた。

 

私たちは基本的に、その雪だるまの視点からしか自分を捉えることができない。

だから自分が何をしているのか、自分に何が起きているのかに気が付かない。

自分が溶けていっていること、飾りは飾りでしかないことに気がつない。

雪だるまは雪だるまを見ることができない。

 

だけれど、飾り立てられた雪だるまを俯瞰的に見る視点、飾りをかき集めてはその飾りを根拠に一喜一憂している雪だるまを眺めている視点、つまり吉田兼好先輩のような視点をもってしてぼーっと自分を眺めてみることができれば、自分がいかに見せかけに囚われているのか、記号に囚われているのか、薄っぺらな世界の中で生きようとしているのか、パズルかゲームのような世界の中で生きようとしているのかに気がつくことができるかもしれない。

 

これまでどれほどの時間と労力とお金を自分が「価値のある人間」であることを手っ取り早く証明してくれる記号集めのために費やしてきたのかということに気がつくことができるかもしれない、これからもどれほどの時間と労力とお金を自分が「価値のある人間」であることを手っ取り早く証明してくれる記号集めのために費やそうとしているのかということに気がつくことができるかもしれない。

 

これってまじでやべぇじゃんけ、とこのことに危機感を覚えることができたら、あとは内実に目を向けて、取り替え不可能で豊かな内実に価値を見出す方向にシフトしていけるかもしれない。

 

声出して切り替えていこう。