悪は生に対立するものであるとはいえ、悪自体もまたひとつの生のかたちである。われわれが邪悪な人たちを殺すならば、われわれ自身もまた邪悪な人間となる。われわれ自身が殺人者となるのだ。破壊によって悪を処理しようとするならば、結局は、われわれ自身を、肉体的にではないにしても精神的に、破壊する結果となる。
M・スコット・ペック『平気でうそをつく人たち』
私たちは一人ひとりが「こういう人間でなければならない」というような理想の自分像をもっていて、その理想像に囚われている。
自分のことを理想通りの自分と思い込み、清く正しく善良な人間と思い込み、人を悪として見て、あんなやつはいないほうがいいと人を責め立てている。
それは一見すると、他人だけを破壊する行為に見えるかもしれないけれど、実際は自分への破壊行為になる。
しかも、他人への憎悪感情によって、他人が傷つくかどうかはわからないけれど、自分は確実に傷つくことになる。
例えば、憎悪感情を込めて匿名でネットに誰かの悪口を書いたとする。
悪口を書いている本人は、確実に相手のことを思い浮かべ、自分の憎悪によって相手を苦しめるつもりで書いている。
そしてその相手がその悪口によって傷つくのは、相手がその悪口を認知し、その悪口が的を得ていて、相手が自分の悪を責めるタイプの人間である必要がある。
一方で、憎悪感情を込めて悪口を書いている本人は、憎悪感情を込めて悪口を書いた時点で遅かれ早かれ確実に自分が傷つくことが約束されてしまう。
悪口を通して憎悪感情をぶつけ、破壊しようとしている相手は、相手そのものではなく、自分が思い浮かべている相手でしかない。
それは相手が目の前にいようといまいと変わらない。
自分は相手そのものを見ることはできず、見てもおらず、必ず自分なりに想像し解釈した相手像を見ている(だから同じ人を見ても人それぞれで解釈が分かれ、それぞれの相手像が一致することは絶対にない)。
つまり、悪口を通して破壊しようとしている相手は実は自分の想像であり、自分の解釈であり、それは自分自身に他ならない。
そして、悪口を書いている時点で、人を悪として捉え、悪は懲らしめるべきという懲罰思想を強化している。そしてその懲罰思想は、自他を区別することなく、自分の悪をも攻撃し破壊しようとする。
悪い誰かを破壊しようとして実際にやっていることは、自分を傷つけ、自分の悪=自分の一部分を破壊しようとする思考パッターンを強めているだけ、自己否定の強めているだけ、ただただ苦しみをもたらす思考パッターンを強めているだけ。
あるカルト教団は、持ち前の懲罰思想によって献金をする者は善、献金をしない者は悪、そして悪には罰が下るとした。
そして、持ち前の懲罰思想と共鳴し、同カルト教団に所属していたある母親は持ち前の懲罰思想により、自分に悪の側面があることが恐怖でしかなく、自分の悪を受け入れきれず、自分自身のことを清く正しく善良な自分と定義し思い込みたいが故に多額の献金をして、そうすることによって自分のことを清く正しく善良な人間であることを証明し、アッピールしようとした。そしてその結果、金銭的に困窮し、人生がボロボロになった。
そしてその結果その母親の息子は、母親の人生を破壊したとしてカルト教団に関係のあった政治家を悪として捉え、その悪を破壊しようとした。
そして私たち世間は持ち前の懲罰思想によってその青年を悪として捉え、その青年にネットで憎悪感情をぶつけまくった。
そうして私たちは自分自信を傷つけ、その苦しみを誰かのせいにし、懲罰思想を強化し、今日も自分は清く正しく善良な人間であることを感じて高揚感に浸りながら再び自分を傷つけ、その苦しみをまた誰かのせいにし、懲罰思想を強化し、誰かを悪として見てまたまた自分を傷つけることに勤しんでいる。
他人への懲罰思想の波及。
自分の中の懲罰思想の無限ループ。
自分なりに物事を善と悪に分け、自分は善であることを証明するために悪を徹底的に苦しめようとする思想。
これはカルト教団にある思想なのだけれど、何よりも自分自身がカルト教団であることに気がつく必要がある。
カルト教団は自分たちの正しさを疑わず、自分の正しさを大前提よして自分なりに善悪を設定し、懲罰思想を設定する。
そして自分たちの正しさ、自分たちの常識に従わない者、自分たちの善悪を共有しない者を見下し、蔑み、悪とし、浄化、教化、教育、正義という名のもとに苦しめようとする。
この思考パッターンは世間的にカルトと言われている集団だけではなく、実は私たち一人ひとりが持っているのではないかしらん。
違いはその自分なりの正しさや常識や善悪や懲罰思想を共有している人数が違うだけで、仮に誰とも自分なりの正しさや常識や善悪や懲罰思想を共有していないとしても、自分の中にカルト教団がいて、そのカルト教団の善悪や常識や懲罰思想を少なくとも自分自身は狂信的に信じ、自分がそのカルト教団にとっての悪にならないか、罰を受けないか、日々びっくんびっくん不安と恐怖と強迫観念に駆り立てられて過ごしていないかしらん。
そのカルト教団の教祖は自分自身でしかなく、その信者も自分自身でしかない。
自分は正しいという大前提に基づき練り上げた教義、聖典、神話、常識、善悪そして懲罰。
その教義の中で、自分は清く正しく善良な人間なんだ、ちゃんとした人間なんだ、価値のある人間なんだ、罰されない人間なんだ、ということをアッピールし、証明することに膨大な時間と労力とお金を注ぎ込んでいる。他人を悪として捉え、他人を苦しめようとして自分を傷つけている。
世間的なカルト教団が信者の時間と労力と金銭と精神をグングン吸い上げ、最後は教団自体が崩壊するように、自分の中のカルト教団によって自分の時間と労力と金銭と精神エネルギーを無尽蔵に吸い取られているのだから、そらぁ、金銭的に困窮するし、心身はボロボロになり、最後には自分が壊れるのは当然じゃろう。
カルト教団の教祖は自分の中にいるのだから是非教祖様に聞いてみよう。
教祖様=自分はどのような教義を練り上げ、どのような善悪を作り出し、何を悪とし、どのようなものに罰を与えようとしているのか、そしてその信者=自分はどうなることに日々びっくんびっくんしているのか。
教祖が懲罰思想の持ち主であり、信者がびくついているようであれば、それは世間で恐れられているカルト教団と本質的には変わりがないということになる。
というわけで、私は自分自身が本質的にはやべぇカルト教団と大差ないということが判明した。
私には思考パッターン的には本質に仲間であるカルト教信者をぶっ叩くことはできないということが判明した。
カルト教信者を叩くこと自体がカルト教信者を悪と見て、持ち前の懲罰思想でぶっ叩くわけなのだから、それこそカルト教団と同質の思考パッターンであることの証拠であるわけだ。
ということは、カルト教団をぶっ叩かない私はもはやカルト教団的ではないということ?
ということは、私は他の人間と一線を画した価値のある人間であり、カルト教団を叩いている人を悪として見て、その人たちをぶっ叩けば、もっともっと自分が価値のある人間でることをアッピールし、証明できるということじゃんけ。
どんな理由でも構わないから悪を見出し、悪を叩いて、世界をきれいしていくぞ☆
頑張るぞ。絶対に負けないぞ。何と言ってもおれっちは清く正しく善良な人間だからな。
という思考パッターン自体がカルト的なわけだ。破滅的なわけだ。
まじでぴえん。
声出して切り替えていこうと思う。