素早く心から謝ることは、高潔な人格をとても必要とする行為である。基礎的な原則や自分の価値観からくる深い内的な安定性がなければ、誠心誠意をもって謝ることはできない。
内的な安定性に欠けている人には、とてもできないことだ。なぜなら、謝罪しようとしたとき、外からの強烈な脅威を感じてしまうからだ。自分が弱いものに見られ、他人がその弱さにつけ込み、それを悪用するのではないかと恐れるのである。そういう人たちの安定性は、他人の意見に起因するものであり、他人にどう思われるかを恐れながら生活している。だから、自分自身の行動を正当化しようとする。相手の間違いや欠点を探し出し、それを自分の行動の言い訳に仕立て、たとえ謝ったとしても、それは上辺だけで口先だけのことである
スティーブン・R・コヴィー『7つの習慣』
私たちには物事を2つに分け、自分にとって都合が悪い方を攻撃する傾向がある。
人を正しい人と間違っている人の2つに分け、間違っている人を容赦なく攻撃し、正すことが正義、あるはその人の存在をなきものにすることが正義だと思っており、誰もが自分の正義を持っている。
私たちは人間なのだから善良な部分もあれば邪悪な部分もあるし、正しい部分もあれば間違っている部分もあり、多様な良い部分と多様な悪い部分がガチムチに入り混じって自分というものを形成しているのだけれど、どうしても私たちは自分が純度100%の善良な人間、純度100%の正しい人間として信じ込んでしまっている。
そして、自分は完全に善良な人間、完全に正しい人間という前提で、他人の中に悪や間違いを見出すと、正義の鉄槌として、相手を徹底的に罵倒し、攻撃し、否定する。言動に出さなかったとしても、心の中でやってしまう。
(相手を否定することで「善良な自分」「正しい自分」という「自分が感じたい自分」というものを感じることができて気持ちがいいからな)
あんな奴には苦しみを与えて反省してもらうべきだ。
あんなやつがいなくなれば世界は良くなる。
あちしが苦しんでいるのはあいつのせいだ。
普段から呼吸をするように悪い人間を攻撃し、間違っている人間を罵倒している中で、自分が悪い、自分が間違っているとなったらどうなるのか。
それは普段から自分が「悪い他人」や「間違っている他人」に対してやっていることを、次は他人からされるのではないかと思ってしまう。
つまり、自分が悪いことや間違っていることを認めてしまったら、他人から責められたり攻撃されたりするのではないかと思ってしまい、不安と恐怖を覚えることになる。
どうしてそれが怖いのかというと、それは自分が相手を責める時にとんでもなく恐ろしい冷酷な感情を起こして相手にぶつけているからで、自分が悪い、自分が間違っているとなるとその自分の冷酷な感情が自分に向かってくるからだ。
手塚治虫大先生の『アドルフに告ぐ』によると、ヒトラーはユダヤ人を徹底的に殲滅しようとし、一方で自分にユダヤ人の血が流れていることを知り強迫的な不安と恐怖に駆られることになった。
その時にヒトラーが感じた不安や恐怖というのは、ヒトラーがユダヤ人に与えようとした不安と恐怖そのものなのであーる。
このように自分が相手に対して起こした感情というのは、諸行無常の理によって条件が切り替わると自分に必ず返ってくる。そうして返ってきたものによって、ありがたい気持ちになったり、不安や恐怖に駆られたりして私たち一人ひとりの世界が形成されてくる。
謝るということは、自分の悪い部分、間違っている部分を認めることであるため、悪を責める習慣がある人は他人から責められるとどうしても思ってしまう。「外からの強烈な脅威」を感じてしまい、怖くてどうしても自分の非を認められない。だからどうにかして自分のことを正当化し、自分は悪くない、間違っていないということを証明しようとする。
謝ると「自分が弱いものに見られ、他人がその弱さにつけ込み、それを悪用するのではないかと恐れる」のは、自分が「自分の非を認めた相手」を弱いものとして見、その相手の弱みにつけ込み、それを悪用しようと考えるからだ。
自分がそうするから相手にそうされるのではないかと考えてしまう。
相手が実際にそうするかどうかはわからない、それは自分の憶測や推測でしかない。そして、どうしてそういう憶測や推測ができるのかというと、自分だったらそうするからで、少なくともそうする側面が自分自身にあるからだ。
他人からこう思われるかもしれない、ああ思われるかもしれないというのも、実は自分の憶測や推測でしかなく、「他人からこう思われるかもしれない」と推測している根拠は「自分だったらこう思う」からでしかない。
私たちは他人が本当はどんなことを思っているのか、どんなことを考えているのかわからない。ましてやその他人というのが不特定多数となると絶対にわからない。それなのに他人からこう思われるかもしれない、ああ思われるかもしれない、とあたかも自分は他人の考えがわかる前提に立っているが、その前提は自分だったらそう思う、自分にはそう思う側面がある、ということでしかない。
私たちは他人を通じて自分自身を見ている。他人そのものは見ていない。
(相手から責められるかもしれないと思った時、そこには人を責める自分が見える。自分が相手だったら相手を責めるからこそ相手から責められるように感じてしまう)
私は昨日、お偉いさんとの約束を完全に失念し、すっぽかしてしまった。
言い訳をせずにちゃんと謝ろうと思う。
声出して切り替えていこうと思う。