現場監督がなにも知らないくせにわたしの人生を決めつけるのをただ聞いているしかなかったとき、わたしはかっと頭に血がのぼった。
ヴィクトール・E・フランクル『夜と霧』
私たちは相手のことをありのままに捉えているようで、実際は自分の中で相手を決めつけて見ている。
「相手はこういう人間だ」というふうに決めつけ、そういう思い込みを紛れもない真実であるとみなして相手と接している。
それは相手も同様で、相手も私のことを「この人はこういう人間だ」と決めつけ、その思い込みの中で私を捉えている。
私が相手をありのままに捉えることができず、自分の思い込みの中でしか相手を捉えられないように、相手もまた私のことをありのままに捉えることができず、相手自身の思い込みの中でしか私を捉えることができない。
そして相手のことを「こういう人間だ」と決めつける時は、自分に都合がいいように決めつける。
相手のことを善人として捉える際も、悪人として捉える際も、自分の都合による。
現場監督は「わたし」のことを自分に都合よく決めつけて見てきたわけだが、それはごくごく自然なことで、自分も実際に相手にやっていることなのでござる。
相手は「わたし」のことをありのままに捉えることができない。
相手は相手の都合の良いように「わたし」のことを決めつけることしかできない。
(相手のことを何の偏見もなくありのままに捉えることは、そもそも人間には不可能なのであーる)
ちゅうことは、そういう相手が言ったことで自分のことを規定することは無意味だ。
ここに赤色の物体があるとして、それを色盲の人が青色と言ったところで、その物体の色が青ということにはならないのと一緒だ。
相手にはそう見えているだけで、そう見えているからと言って、それが真実にはならない。
このことがわかっていると、相手が自分を決めつけてもネバギバの精神で頭にわざわざ血を上らせる必要はない。
ほーん、現場監督にはわたしのことがそういうふうに見えているんだー、そういうふうに物事が見える世界にこの人はいるのかー、おもろいなー、で終わりだ。
私たちは相手のことを自分の思い込みでしか捉えられない以上、自分に見えている相手と実際のありのままの相手は必ず異なるし、相手に見えている自分と実際のありのままの自分は必ず異なる。
んじゃあ、どうして私たちは相手が決めつけてくることに対していちいち怒り狂うのか。
まずは、先にも述べたとおり、「そう見えている世界」と現実を区別できていないからだろう。
そして、そういう不確かな他人からの評価、不正確な他人からどう見られるかで自分の価値を規定しようとしているからだろう。
その上で、「価値のない人間」に対して自分が否定的な思いを起こすからだろう。
他人から「価値がない人間」として見られる。
その不確かな他人からの評価をもってして自分のことを「価値のない人間」として規定してしまう。
「価値のない人間」に対して普段から否定的なので、自分が「価値のない人間」になると、自分で自分に対し否定的になり、その結果苦しむ。
その苦しみは自己否定によってもたらされたものであるのに、相手がもたらしたものであると段違いな勘違いをし、そういう相手を苦しめたり傷つけたり罰したりすれば自分の苦しみは消え去るとこれまた段違いな勘違いをしてしまい、思っきり否定的な思いを起こしてしまう。
これが怒りなのだろう。
自分には自分に見えている世界があり、相手には相手に見えている世界がある。
そして自分も相手も自分自身に見えている世界からは出ることができない。
そして一方で、自分や相手に見えている世界とは違ったあり方の現実がそこには確実にある。
だけど私たちはその現実をありのままに捉えることはできない。
自分にはこう見える。
相手にはああ見える。
ただそれだけだ。
両者の見え方が一致する場合もあるかもしれないけれど、一致しているからと言って、それが紛れもない真実ということにはならない。
だからどっちが正しいとか間違っているとかにもならない。
誰かが何か気に食わないことを言ってきたら、上記のことを思い出していただけたら幸いである。
相手にはそう見えているだけ。
声出して切り替えていこう。