おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

職場でへらへらしているとAさんから内線がかかってきて

先日、職場でへらへらしているとAさんから内線がかかってきて、それから約1時間ほどAさんの愚痴を聞くことになった。

 

Aさんには仕事のやり方が気に入らないBさんという人がいて、その愚痴というのは、私はちゃんとやっているのにどうしてBさんってこうなんだろうか、私がちゃんとやっているようにBさんももっとこうしてくれたらいいのに、という内容だ。

 

AさんからするとBさんは悪く見える。AさんはBさんと密にコミュニケーションをとったこともなければ、内面について確認したこともなければ、神でも仏でもないのだから、Bさんの内面をクリアに把握しているわけでもない。

 

そのような不確か極まりない状況の中で、AさんはBさんはこう思っているに違いない、ああいう意図でやっているに違いない、Bさんはそういう人だ、と決めつけて責め立てている。これはAさんだけではなくて、私たちの多くがやってしまっているし、ついやっていしまうあっぱらぱーな傾向だ。

 

他人のことなど本当はちゃんと見えていないのに他人のことが悪く見える。それは苦しみが自分の中に溜まってきていて、その苦しみが溜まったままだと苦しいのでそれを吐き出したいからだ。

 

吐き出す際には取っ掛かりが必要で、その取っ掛かりとして悪は最適だ。悪は責めやすい。誰かを悪者にすれば、自分は善人として正々堂々と自分の愚痴を吐き出すことができる。苦しみを吐き出すことができる。そうしてすっきりすることができる。

 

愚痴を吐く時には、自分が悪とみなしている人に罵声を浴びせるのではなく、第三者に話を聞いてもらうほうがいい。Aさんの例で言えば、AさんはBさんに思っていること(こうに違いないぽよ、と思い込んでいること)を罵詈雑言の形としてぶつけるのではなく、第三者に内線を入れて話を聞いてもらったほうがいい。

 

あの人が悪いと思った時は大抵、その人の内面を確かめていないのだから、その人のことが悪く「見えている」にすぎない。それは相手が原因ではない。そう見えてしまうのは、自分に原因がある。よってどうして相手はこうなんだと責め立てるのではなく、どうして自分には相手のことがこうも悪く見えるのかしらん、と考える必要がある。相手のことを悪く見て、私は何をしようとしているのかしらん。

 

自分が正しいところに立って、自分の中に溜まっている苦しみを吐き出したい。正しい自分、善良な自分、できる自分、清廉潔白な自分というものをアッピールしたい。そして相手を悪く見て相手を責め立て、見下すことによって、そういうきれいな自分というものを感じたい。自分は価値のある人間なんだということを感じたい。そう感じることができることによって、自分のことを肯定することができる。価値のある自分は人から大事にされると思い、安心することができる。と思っているのかもしれない。自分の中に確実にある醜い自分、臆病な自分、汚い自分、卑怯な自分、ケチ臭い自分、猥雑な自分、できない自分、そういう悪の自分を受け入れ切れずにいるが故に、相手に自分の悪の部分を見出して否定して攻撃しているのかもしれない(自分が相手の悪の部分だと思っている側面は大抵自分にもある)。

 

「物事が〇〇である」というのと「物事が〇〇のように見える」ということの間には大きな違いがあり、私たちは自分の心のフィルターを通してしか物事を見れない以上、後者の見方をおこなうことしかできない(一切の独断と偏見のない前者の見方、物事をありのままに捉える見方ができるのは神や仏だけだ)。つまり、私たちは必ず「〇〇のように見える」世界の中で生きている。

 

人の愚痴を聞くというのは簡単ではないが、今の自分にはどのように世界が見えているのか、そして、相手にはどのように世界が見えているのか、そういうことを考えることができる面白い営みでもある。