おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

思い込みで相手を見てしまう

一般的な傾向として、人は自叙伝に照らしてみて、自分は他人のニーズや欲求が分かっていると思い込むことが多い。つまり、他人の行動を自分の考えやパラダイムを通して解釈するのだ。

ティーブン・R・コヴィー『7つの習慣』

 

私たちは自分の経験に基づき、「〇〇はこういうものだ」「こうすればこうなる」というように物事を固定化して捉えてしまう傾向にある。

 

この傾向はある意味では効率的で、ことあるごとに立ち止まってこれはどういうことなのかしらん、と考えていると何もできなくなる。

 

よって、ある程度は物事を固定化し、パッターン化し処理していくことは理に叶っている。

 

しかし、対人関係においては、相手を固定化するのではなく、ちゃんと見てあげる必要がある。

 

人は誰しもが根本的に寂しさを抱えていて、みんな誰かにちゃんと見てもらい、存在を認めてもらいたいと思っている(ちゃんと他人から見てもらい、存在を認めてもらいたいが故に世間的価値を必死にかき集めて自分の価値を証明、アッピールしようとしている)。

 

その寂しさを抱えている相手に対し、その相手を見ようとするのではなく、自分が相手に対して思い込んでいるイッメージに基づいて接していると、その相手の寂しさは癒やされず、その寂しさは募るだけで、一向に人間関係が深まっていかない。

 

「あいつは〇〇な人間だからこうしておけばいい」という固定化。

 

これは諸行無常の理によって刻々と変化している相手を見ようとするものではなく、過去の特定の時期の特定の出来事に基づいて作られた自分の中の相手に関する思い込みを見ているに過ぎない。

 

現実の相手と自分の思い込みの中の相手というのは絶対に違うのだから、思い込みの中の固定化された相手とコミュニケーションしていると、現実の相手とのコミュニケーションに齟齬が出て、自分は自分で「おれはあいつのことがわかっている。だからこうすればうまくいくはずなんだ。なのに何であいつはああしてくれないんだ、こうしてくれないんだ、まじでぴえん」となり、相手は相手で「こっちのことわかろうとする気ゼロじゃんけ、自分の中の勝手なイッメージの私とぺちゃくちゃ話しているだけで、こっちのこと全然見ていないじゃんけ、まぁとかいう私もやってしまうんだけどね、テヘペロ」となり、当然のごとく両者はお互いに向かい合ったまま実質的に虚空に向かって、それぞれが持っている相手の固定的なイッメージに向かって話をし続けているということになる。

 

身近な人には特に、おれはあいつのことがわかっているぽよと自惚れて、自分の相手に関するイッメージを正しいもの、正確なものとして思い込んでしまう、雑なコミュニケーションをついしてしまうのだけれど、身近な人だからこそちゃんと見る必要がある。

 

ちゃんと見て、相手の根本的な寂しさを癒やしてあげる必要がある。

 

相手の寂しさをまずは癒やすことによって、信頼関係が深まり、それに伴い相手も自分を大事にしてくれるようになる。自分の寂しさも解消されるようになる。

 

自分の寂しさを癒やすために、私たちはまず世間的価値を手に入れ、自分の価値を他人に認めさせようとするが、それは有効な手段では全然なくて、それよりもちゃんと相手を見て、相手の寂しさ、大事にされたい、認められたい、無視されたくないという欲求を満たしてあげることのほうが決定的だ。

 

私も含めこの世は「まずは自分の寂しさを解消して欲しい」と思っている人ばかりなのだから、一旦自分の欲求は置いておいて、他人の欲求を満たそうとすることに切り替えたほうが楽勝かつ確実に自分の寂しさも満たされていく。

 

自分が寂しいのであれば、まずは自分が相手の寂しさを癒やす。

自分が大事にされたいのであれば、まずは自分が相手を大事にする。

自分が受け取りたいのであれば、まずは自分が相手に与える。

 

自分が欲しいものをまずは自分が与える、これがこの世の原則で、これ以外の因果関係はないのだけれど、実際に人に自分が欲しいものを与えようとするとそれが案外とできないことに気づく、それが難しいことに気づく。

 

(そしてここで与えるものというのはお金やモノではなく感情だ(だから「まずは相手に与えることが重要です」という名の下に、金銭を要求してくる人や団体がいたら要注意だ)。温かい思いで何を相手にやれば温かい思いが返ってくる。冷たい思いで何かを相手にやれば冷たい思いが返ってくる。)

 

すると、自分は自分にとって難しことを当たり前のように相手に要求していることに気づく。とんでもなくハードルの高いことを当然のごとく相手に要求し、それが叶えられなかったら、相手を責めたり攻撃したりする。

 

そうしてまずは自分がやってあげること、やろうとすることで自分の邪悪さにも気がつくことができるわけだ。

 

自分の邪悪さが見えたら、その部分を否定して消し去ろうとしたり、そういう部分を見せてきた相手に憎悪感情を抱くのではなく(抱いてしまったら抱いてしまうことを事実として受け入れる)、自分にはそういう邪悪な部分、「自分にできないことを相手に当然のごとく要求し、思いどおりにならなかったら相手を責め立てればいい」という思考パッターンがあるということを事実として受け入れていけばいい。

 

声出して切り替えていこうと思う。