他人の死は数え切れないほど見てきた。「死」の痛みにさえ鈍くなっていた。ましてやシベリアの空が美しいなどと考えもしなかった。第一、空をしみじみと眺めてみるような心の余裕などなかった。不思議な人物もいるものだという驚きとともに、「そうか、シベリアにも青空があったのか」という、思いがけないものでも見つけたようなほろ苦い気持が広がった。
辺見じゅん『収容所から来た遺書』
過酷な状況におかれても美しい空を見いだせる人とそれに気がつかない人がいる。
同じ状況に直面しても、そこから何を見出すのか、それに対してどう反応するのかというのは一人ひとり異なる。
こう反応しなければならない、ああ反応しなければならないというのは絶対的なルールはなく、どうしようもなくそう反応してしまう、そう捉えてしまう、そう見えてしまう、そういったものが自分の世界ということになる。
同じ空間を共有していても、実際は人それぞれ異なる世界の中で生きている。
こういったことが理解できず、自分は正しい、自分がこう捉えるように他人もこう捉えている、自分にそう見えるように他人にもそう見えている、自分がこう反応するように他人もそう反応する、仮に自分と同じようでなければその人はおかしいと思うことが多いのであれば、その独りよがりな思い込みは、なんでああじゃないんだ、こうじゃないんだと、対立を生み、束縛を生み、支配を生む。
自分というのは自分の物事の捉え方や解釈の中に生きていて、それが自分の世界であり、その世界から出ることはできない。その世界の中で自分にとっては当たり前の反応パッターンを繰り返している。
そうしてその自分の世界の中で、苦しみを感じたり喜びを感じたりしている。
んじゃあ、今目の前に展開されている自分の捉え方、解釈、思い込み、世界はどうしてこうなのか(誰かのせいにするのは簡単だがどうして拭い去れないのか)。
他のあり方もあり得るにも関わらず、どうして自分の世界は今のようなものなのか。
自分の捉え方、解釈、思い込み、世界はどのようにして形成され、自分は今その中でどのような苦しみを味わったり、どのような喜びを味わったりしているのか。
例えば怒り。
自分が正しいと思うことが起こらなかった時、何かが自分の思い通りにならなかった時、誰かが自分の考えとは違うことをした時、怒りを感じて苦しむ人と怒りを感じずに苦しまない人がいる。
このように人によって反応が異なるということは、怒りの根本原因は起こった出来事そのものにあるわけではない。
怒りを感じる根本原因が出来事そのものにあるのであれば、全員がひとり残らず怒りを感じるはずだが、そうならないのは怒りの根本的な原因は怒っている本人にあるからだ。
ある出来事に対してどう反応するのかというのは完全に個人の自由なのだけれど、そこで怒ることを選択している、あるいは思い通りにならないことがあったら怒るという反応パッターンをガチガチに持ってしまっている。
どうして自分は別の選択肢がある中であえて怒るという選択をして苦しもうとするのか、あるいはすぐに怒るという反応パッターン、つまりすぐに苦しみに走るという反応パッターンを持ってしまっているのか。
怒って苦しんでどうなると思っているのか。
というようなことを時には考えないと、諸行無常の理によって生じる種々様々な事柄に、自分は正しいという前提の下、ただ闇雲に反応するだけの自称大人になってしまうよな。
声出して切り替えていこうと思う。