おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

何者でもない自分を飾る

 このロマンチック・ディナーも、ひと皮むけば嘘で塗りかためた状況ということになる。デニスのしたことは、すべてシーラに良く思われたいがためだ。シャンパン、ほのかな照明、静かな音楽のどれひとつとして、デニスのふだんの生活にはまったく縁がない。ふだんの話題はもっぱらスポーツのことだ。この夜の演出は、セックスに至るための巧妙な策略だったのだ。こんな風に場面を作りあげれば、シーラがやらせてくれる可能性は高いことを、デニスは経験から知っていた。

 そのシーラも、デニスに負けず劣らず嘘つきだ。自分を飾りたてて、デニスの男脳を刺激するような格好をした。第9章で説明した性的シグナルを総動員して、デニスの注目を集めたのだ。この夜の二人の行動は、個人的な利益を満足させることが目的だった。だから何から何まで嘘と偽りだらけだったわけだ。しかしそのことを当人たちに問いつめれば、当然二人とも強く否定するにちがいない。

アラン・ピーズ&バーバラ・ピーズ『嘘つき男と泣き虫女』

 

私たちは自分ではないもので自分を定義しようとする。

基本的に「自分はこんなに価値のある人間なんだ」と演出しようとする。

 

シャンパン、ほのかな照明、静かな音楽。

ブランド品、ファッション。

 

そして自分がネバギバの精神で演出しようとしている価値のある自分像というのは、多くの場合、普段の自分ではない。

 

んじゃあ、どうして嘘で塗り固めて普段の自分を隠す必要があるのかというと、自分自身が普段の自分に価値を見出せておらず、価値のないこんな自分は人から見捨てられる、人から拒絶される、ひとから嫌われると思い込んでいるからだ。

 

んじゃあ、どうしてそのように思い込むのかというと、自分自身があいつには価値がないと判断した人のことを見捨て、拒絶し、嫌うからだ。

 

自分の中に例えば、シャンパンを嗜む人は価値のある人間、シャンパンと無縁の人は価値のない人間、というような価値観、人間観、イッメージ、思い込みを持っていて、シャンパンと無縁の普段の自分のままだと価値がなく、価値のない人間は見捨てられてしまう、嫌われてしまう、だからシャンパンという記号で価値のある自分像をプロデュースするぜよ、という思考パッターン。

 

普段の自分を否定する気持ちが強いが故に、普段の自分を隠してありとあらゆる価値のある記号を駆使して価値のある自分像を作り上げようとしている。

 

日常的な自分ではなく、非日常的な自分像を重視している。

実質的な自分ではなく、虚像の自分を重視している。

 

それが私たち自称大人の多くのあり方なのかもしれない。

 

そして虚像同士が会うために、非日常的が持続可能な短期間はなんとかなるのだけれど、人生というのは長期間であり日常であるために、一定期間一緒に過ごすと、虚像はもろくも崩れ去る。

 

自分の虚像が崩れ去ると、実際の自分を突きつけられて耐えられないために、自分は自分をさらに誤魔化そうとする。注意を自分ではなく自分の外に向け、欲を貪ろうとする、人や社会のあら探しをして怒りを他人にぶつけようとする。

 

そして虚像によって幻惑されていた人も、その幻術が解け、我に返り離れていく。

 

まぁ、これが恋愛や結婚の悲劇のパッターンなのだろう。

 

この悲劇は、自分自身が普段の自分、何者でもない自分に価値を見出だせていないところから始まっている。

 

その価値観に加えて「価値のない人間を見捨てる、拒絶する、嫌う」という自分の反応パッターンも絡んでいる。

 

確かにその人は(自分の基準の中で)価値のない人間かもしれない。

 

だからいって、その価値のない人を見捨てる必要も、拒絶する人も、嫌う必要もない。

 

価値のない人に対する反応パッターンがネガティブなものである必要はない。

 

それ以外の反応(存在を肯定するという反応、何もしないという反応)も自称大人であれば選択できるはずなのだけれど、どうしてもその反応パッターンがネガティブで攻撃的なものだけに限られている。

 

ある人が価値のない人間であることと、それに対して自分がどう反応するのかということは全く別の次元の話なのだけれど、その両者がガチムチの固定パッターンとして結びついてしまっている。

 

「価値のない人間→嫌い、拒絶する」という反応パッターン。

 

これが普段の自分に適用され、「普段の自分には価値がない→嫌われ、拒絶される」という思い込みを生み出し、嫌われまい拒絶されまいと不安と恐怖と強迫観念に駆られて、シャンパン、ほのかな照明、静かな音楽でネバギバの精神で普段の自分ではない「価値のある自分像」を演出し「価値のある自分→拒絶されない」という構図を作り出そうとしてしまう。

 

根本的な原因は全て自分の価値観、思考パッターン、反応パッターンにある。

他人は縁でしかないため、どんなに他人のせいにして攻撃しても問題は何も解決しない。

(よって何事においても他責は自分が苦しむばかりか何も解決しないという最悪な手段ということになる)

 

特定の他人を排除できても、自分の中の根本的な原因が変わっていないために、また別の他人が縁となって同じような不安と恐怖と強迫観念に駆られて虚飾に走ることになってしまう。

 

その結果、虚飾に走り続けるだけの人生になってしまう。

その結果、何十年生きようが中身がすっからかんの人生になってしまう。

 

中身がないので記号で勝負することになる。

一時の記号で人のことを判断することしかできなくなる。

 

記号をそれなりにかき集め、価値のある自分像は保てていたとしても、どことない空疎感に常に苛まれることになってしまう。

 

そしてその空疎な感じを誤魔化すために記号をかき集めたり他人を責めたりして(他人を責めると正しい自分というものを感じることができる、正しい自分というものを証明できているような気分がする)価値のある自分像をさらに作り上げようとする。

 

以降、それの無限ループ。

 

先に述べたが、この悲劇は、自分自身が普段の自分、何者でもない自分に価値を見出だせていないところから始まっている。

 

何らかの条件を満たしていないと存在価値がないと思ってしまう思考パッターン。

 

この単なる思考パッターンに脳髄がすっかりやられてしまい、記号集めが始まり、虚飾が始まり、虚像の証明活動が始まり、空疎な人間関係が始まり、すっからかん日々が始まることになってしまう。

 

何の記号によっても定義されていない何者でもない自分は果たして本当に価値がなく、大事ではないのか。

 

誰かにとっては大事ではなくても(自分が人のことを自分の都合で判断するように、他人も他人の都合で自分のことを判断してくる。自分の判断力と同様に他人の判断力も絶対ではないため、他人からの評価を絶対視する必要は全くない)、少なくとも自分にとっては大事ではないのか。

 

何者でもない自分を大事だと思えたら、記号集めをする必要もなく、何らかの条件を満たそうと必死になる必要もなく、記号を集めることや条件を満たすことや虚像を証明することに伴う不安や恐怖や脅迫観念に苛まれることもなくなるだろう。

 

大事な自分を大事にするために必要なこと、効果的なことをやっていくだけだ。

 

自分にとって自分は大事であると思えないのであれば、おそらくそれは特定の条件を満たした人間でなければ価値がないという思考パッターンに陥ってしまっていて、自分はその特定の条件を満たせていないからダメなんだと思い込んでいる。

 

普段人を責めることが多い人は、特定の条件を満たしていない人を悪、価値がない人間としてみることが多い。

そして一方で、人間は完璧ではないため、必ず自分にも悪の部分があり、価値のない側面がある。

そして悪や価値がない存在への自分の敵意や攻撃性や冷淡さが自分の悪や価値がない側面にも向かう。そして苦しんでいる。

 

自分が他人を攻撃するために研いだ刃によって何よりも自分自身が苦しんでいる。

 

そう考えると、他責習慣=自責習慣のある人というのは皮肉ではなくガチのムチで可哀想な思考パッターンに陥っているということになる。

 

自分で勝手に条件を設け(自分は絶対に正しいという前提のもと人間はこうあるべきだあああるべきだというガチガチの人間観に囚われ)、その条件を満たせてない他人=自分を責めている。そもそも人間が完全であることはないために、不完全である自分のことを自分にとって大事だと一向に思うことができず、思うことができないために実際に大事にすることができず、自分が自分を大事にできないため幸福になれない。

 

よーし、今日も記号集め、虚像の証明活動頑張るぞい。

 

まじでやべぇ(今まで書いてきたことは何だったのか)。

 

声出して切り替えていこうと思う。