写生といふ事を皮相に解釈してなんでもかんでも見たままの事実を句にして万事事了れりとする初心者が多い。事実より真実へ、現象より本質へとゆかねばならぬのである。正しく言えば事実を通じて真実を、現象を通じて本質であらう。
辺見じゅん『収容所から来た遺書』
ある現象や出来事や発言や行動が、事実として起こる、発生する。
例えば、誰かが自分の目の前を通り過ぎる。
その事実に対して、ある人は無視されたと感じる、ある人はきれいな人だな感じる、ある人はなんだあの目つきはと感じる、ある人は何も感じない、ある人は邪魔だなと感じる。
誰かが目の前を通り過ぎるという一つの事実に対して人それぞれ解釈をする、色をつける。
相手の本心などわかりようもないはずなのに、あいつはああいう人間だ、こういう気持ちでああしたに違いない、私のことをこう思っているに違いない、ああ思っているに違いないと決めつける。一時の一部の発言をもってして、相手のことを「こういう人間だ」と固定化し、全面的に永続的に決めつける。
そうして、ある無色透明な事実に自分なりに色をつけ、その色の世界の中で自分は生きていて、一喜一憂していて、そこからは絶対に抜け出すことができない。
そしてさらに愚昧さが進むと、自分は絶対に正しいと思い込み、自分に見えている世界が世界そのものであり、他人もそのように見えているはずだと思い込む、そう見えていないとおかしいと思い込む。
そういう色のつけ方、これが自分の真実であり、本質ということになる。
無色透明な事実や現象や本当のところはよくわからない他人の言動に対して、どうしてあちしはこのような色付けをするのか、解釈をするのか、捉え方をするのか。
無色透明な事実や現象や本当のところはよくわからない他人の言動から、どうしておれっちはこのような思い込みの世界を作り上げ、その中でぴえん、ぱおんと苦しんでいて、ウェイウェイ高揚しているのか。
こういうことについて、考えていくことによって、自分の真実や本質が見えてくる。
無色透明な事実や現象や本当のところはよくわからない他人の言動が「自分にはこう見えているという事実」を通して、自分の世界、自分の習慣、思考パッターンが見えてくる。思い込みと現実の差、諸行無常が見えてくる。
自分が日々考えていることが他人の言動を通して見えてくる。
例えば、自分はよく人から見下されていると感じることがあるとする。他人の一挙手一投足が自分を見下しているように感じることがあるとする。そう感じているということ自体は事実なわけだ。
他人や世間が自分のことをどう思っているのかというのはよくわからないし、本当はどんなつもりで一つ一つの言動を行なっているのかということもわからないにも関わらず、他人や世間の一挙手一投足が自分を見下しているように感じてしまう。
なぜか。
それは自分が自分のことを見下しているからだ。
自分の中に気に食わない部分があったり、こうでなければならないと思い込んでいるけれどそうではない部分があったりして、そういった部分がある自分について、他の誰でもない自分自身が「価値のない人間」として見なして見下している。
またそういった部分がある他人についても見下している。
自他を問わず自分が気に食わないものに対しては冷たい感情を起こし、見下すという反応を示してしまうというのが自分の本質であり、習慣であり、思考・反応パッターンであり、それらが自分の解釈や思い込みや世界を生み出している。
その世界では、見下すことができるように頑張ること、見下されないように頑張ることが生活の軸となる。優越感をいかに得るか、劣等感をいかに得ないか、それが人生の目的になり、優越感を得られそうなものを延々と収集し、自分の優越感を示すことが生きがいになる。
というように、本来無色透明な物事、どんなつもりでやっているのか本当のところはよくわからない他人の言動を自分はどう感じることが多いのかということを、ちんぐり返りの姿勢で冷静に考えていくと自分の世界、自分の習慣、思考パッターンが見えてくる。
自分が苦しんでいるのはアイツのせいなんだこいつのせいなんだと喚きたい気持ちもわかるが、その本当の原因は自分にある。人を責め立て、人を苦しめようとしているのは、その本人がすでに苦しみの世界にいるからで、その世界は自分自身が生み出している。みたいな感じのニュアンス的な雰囲気のことがわかってくる。
今日一日の間に、事実として起こったことを自分はどう色付けしているのか。
自分の世界を見てみると面白い。
多くの場合、清く正しく善良な自分像を自分だと思い、きれいな自分像にしがみついているため、自分の真実や本質を怖くて受け入れられず、人のせいにするか快楽で誤魔化そうとするだろう。
私も今日はマックフライポテトLサイズを8個ほど暴食しようと思う。
声出して切り替えていこうと思う。