お客さんを喜ばせる、困った人を助ける、これは一言で言えば他人を愛するということだ。でも、僕たちにとって愛は、それを口にするのも恥ずかしいくらい「道徳的」で、「しなければならないこと」になっている。だからこそ多くの人は、人を愛することを「楽しむ」習慣がないのだろう。でも僕たちにとって本当は人を愛することは楽しくて気持ちのいいことで、経験を通してその気持ちを大きくしていく
水野敬也『夢をかなえるゾウ2』
愛するということは、大事にしてあげる、整えてあげるということで、実際に何かや誰かを整えることというのは楽しいことだと思う。
これは実際に自分の日常を整え、自分の体や心や持ち物や身近な人を大事にすることを心がけていくと実感としてわかる。
いやー、なんかすげぇいいなー、としみじみとわかる。
この実感が感じられないのは、日常的にやっていること、たとえそれが世間的に良い習慣と呼ばれていることでも、それを優越感のためにやっているからだろう。
あることを優越感を得て他人を見下すためにやっているのか、自分や他人を整えて大事にするためにやっているのかで、楽しさを感じることができるのかどうかが決まってくるし、あるいは感じる楽しさの種類が変わってくる。
この手の楽しさがわかってくると、道徳的に正しいからやらないといけない、やらないと人から責められるからやらないといけない、人から馬鹿にされるからやらないといけない、人から嫌われるからやわないといけない、という発想がなくなってきて、単純に気持ちが良いからやる、やりたいからやるという感覚になってくる。
掃除をしないと怒られるからやる、筋トレをしないと馬鹿にされるからやる、仕事をしないと責められるからやる、という感覚から、日常空間や自分の体や他人の問題を整えるのが楽しいからやる、乱れているものを整えていくことが楽しいからやるという感覚になってくる。
「愛することは楽しくて気持ちのいいこと」というのは綺麗事ではなくて、これはまじだな。
これがわかると、日常が良い習慣、つまり、自分の体や自分の心や自分の持ち物や身近な人を整えて大事にすることを目的とした習慣で埋まってくるし、逆に、他人を見下したり、傷つけたり、馬鹿にしたりすることにメリットを見いだせなくなってくる。
だからといって私に他人を見下したり、傷つけたり、馬鹿にしたりするような側面がないわけではなく、そういった側面は私の中に間違いなくある。
人から見える形でやることは殆どないが、内面に注意を向けると、他人を見下したり、傷つけたり、馬鹿にしたりするような思いを起こしている時があり、己の醜悪な様がありありと見せつけられ、うわー、やっちゃんてんねーおいどん、と反省することもある。
醜い側面があるから醜い行いをやってしまったり、醜い思いを起こしてしまったりするこがあるわけで、醜い側面があるということを認めたからといって、自分の醜い行いや思いを正当化することはできない。
受け入れるということと正当化するということは全く異なる。
正当化するということは、正しいものしか受け入れないということで、この思考パッターンは確実に自分や他人に苦しみをもたらす。正しくないと見なしたものは、無視したり、責め立てたり、攻撃したり、否定したりするからな(自己否定も夫婦喧嘩もネット上の炎上も国家間の戦争も全部このパッターンなんだぜ)。
受け入れるということは、醜いものを醜いものとして受容する、悪は悪として受容する、間違っていることを間違っていることとして受容する、事実を事実として受容する、みたいな感じのニュアンス的な雰囲気のことだ。
醜いのは醜いもので悪は悪で間違っていることは間違っていることで仕方がないが、そのようなものを内包している純度100%の善ではない自分、純度100%の悪ではない自分というものを受け入れて、ワケワカメな多様な側面で構成されている自分全体というものを大事なものとして大事にしていくだけだ。
というようなことがだんだんとわかってくると、やっぱり日常が良い習慣、つまり、自分の体や自分の心や自分の持ち物や身近な人を整えて大事にすることを目的とした習慣で埋まってくるし、逆に、他人を見下したり、傷つけたり、馬鹿にしたりすることにメリットを見いだせなくなってくる。
整えて大事にすることを楽しむ日常か、乱して粗末にすることを楽しむ日常か、どのような日常を心がけるのかは完全に個人の自由なのだけれど、その結果として心の穏やかさなり苦しみなりの結果は自称大人として誰のせいにすることなく引き受ける必要がある。
(誰かのせいにしても自分の苦しみとは直接的には関係がなく、誰かを責めるという習慣自体が苦しみを生じさせる)
今日は友人と会う。
乱れるかもしれないが、乱れたらまた整えればいい。
声出して切り替えていこうと思う。