おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

平凡なことに価値を見出すという特別

朝から晩まで、面白味のない些末な用事ばかりしていると、自分に能力があるという実感が持てない。カーペットに掃除機をかけるのは、誰でもできる。祖国のために生命を捧げた兵士ならば、御影石の記念碑に名前のひとつでも刻んでもらえるだろう。だが家事はそうではない。家庭内を平穏に保ったからといって、ノーベル賞がもらえるわけでもない。母親が文句ばかり言うのは、自分のやっていることを認めてもらいたいのに、きちんと評価されないからだ。

アラン・ピーズ&バーバラ・ピーズ『嘘つき男と泣き虫女』

 

私たちは平凡で誰もができるようなことには価値を見出さず、特別で誰もできないようなことに価値を見出す。

 

何かと何かを比べて、その差に価値を見出して、その価値によって自分を価値のある人間として定義しようとする。

 

カーペットに掃除機をかけるのは誰にでもできるから価値がない。

祖国のために戦い、記念碑に名前が刻まれることは誰にでもできることではないから価値がある。

ノーベル賞をもらうことは誰もができるようなことではないから価値がある。

 

平凡なことに価値を見出せない、不特定多数の人から認められないと価値を見出せない、という思考パッターン。

 

(この思考パッターンに基づいて、私たちは日々何か特別なことを血眼で追いかけ回し、不特定多数の人に認められようと日々ネバギバの精神で頑張っている。)

 

んじゃあ、果たして本当に平凡なことには価値はないのかしらん、不特定多数の人から認められないことに価値はないのかしらん、というとそんなことは決してない。

 

例えば、掃除、洗濯、自炊。

 

確かに平凡だし、これらをやっているからといって誰かが称賛してくれるわけではないのだけれど、そんなこととは関係なく、それらには楽勝で価値がある。

 

掃除や洗濯や自炊、これらには本当は凄まじく価値があるのに、自分自身が平凡なことには価値がないという思考パッターンに囚われて価値を見出せていないだけだ。

 

ノーベル賞級の発見は確かに特別で市場価値があるかもしれないけれど、ノーベル賞級の功績は自分の幸不幸とは直接関係がない。

 

だけど自分が自分を大事にできるかどうかは幸不幸に直結する。

 

フェッラーリを持っていようが持っていまいが日常生活の整いには何の影響もないが(現に私は車さえ持っていないが、日常生活に何も問題のない)、掃除や洗濯や自炊がなければ、日常生活は瞬く間に乱れていく。

 

人が認めてくれないのが問題ではないし、ノーベル賞を取れないことが問題ではない。フェッラーリを持っていないことも問題ではない。

 

自分の思考パッターンが問題だ。

 

自分自身が平凡なものに価値を見い出せず、平凡なことをしている人の価値を認めることができないために、平凡なことをしている自分には価値がないと思ってしまう、人から認めてもらえないと思ってしまう。何か特別なことをしていないと価値がないと思ってしまう、価値がないとこの世に存在していてはいけないと思ってしまう。だから不安と恐怖と怒りと強迫観念に駆られて特別なものを追いかけ回す、手に入れられなかったら人を責める、自分を責める。

 

全て自分の思考パッターンが原因なのだけれど、その思考パッターンを変えるために、まずは平凡なことに価値を見出して、平凡な人の存在を肯定してくれる人というのが必要なのかもしれない(無論オムロン、そういう人が周囲にいないからといって、なんで私のことを認めてくれないんだぽよと他人を責めても他人が離れていくだけだ)。

 

「特別なことにしか価値を見いだせない」という平凡な思考パッターンの人が圧倒的な中で、「平凡なことに価値を見出す」という特別な思考パッターンの人の存在というのは案外と稀少なわけだ。

 

そうなると、特別で稀少な存在になるのは案外と簡単なのかもしれない。

 

声出して切り替えていこうと思う。