ラムファードはおりあるごとに、言い方をいろいろ変えて、弱いものは死んだほうが世の中のためだと話していた。
カート・ヴォネガット・ジュニア『スローターハウス5』
身体の大きさ、地位、権限、肩書き、容姿、過去の実績などが力の源になっている場合、それが変化したり失くなってしまったりすれば、はたしてどういう結果になるだろう。
スティーブン・R・コヴィー『7つの習慣』
私たちは、自分に何らかの世間的な価値があると感じている時に、調子に乗ってしまう。
自分は〇〇ができる、自分は〇〇を持っている、だから自分には価値がある。
その〇〇は自分が価値があると思えるもの、不特定多数の人間が価値があるとみなしていると思われるものであれば何でも当てはまる。
そういった価値は確かに価値がある。
それは間違いない。
だがしかーし、その手の価値を根拠に、その手の価値を手にしていない人を見下したり、馬鹿にしたり、責めたり、否定したり、粗末に扱ってもいいということにはならない。
つい私たちは調子に乗ってやってしまうけれど、絶対にやらないほうがいい。
そのようなことをしてしまうと、たとえそれが心の中だけでそうしたとしても、必ず自分が苦しむことになるからだ。(「他人を傷つけないため」という理由は正直二の次だ)
なぜならば、その手の価値は諸行無常の理によって必ず変化し、失くなっていく、つまりその優位性と思われるものは一時的なものにすぎないからだ。
(そもそもこの「優位」というものも個人の思い込みの中にだけ存在する幻想でしかない)
一時的に成り立っているものを根拠にして、自分には価値があると段違いな勘違いをし、価値があれば価値のない人間を見下してもいいとさらに段違いな勘違いをし、他人を見下したりしてしまうと、その価値が変化したり失くなったりした時に(それは必ず起こる)、自分は自分の価値観の中で価値がない人間となり、見下されるべき存在となり、周囲の人間が自分を見下したり馬鹿にしているのではないかとどうしても思ってしまい、苦しむことになる。
まず大抵の場合、相手の心の内を本当に確認できない以上、それは自分の思い込みであり、どうしてそう思い込んでしまうのかというと、自分が価値のない人間を見下す思考パッターンを持っているからに他ならない。
「他人を見下す」という思考パッターンが種となり、「他人から見下される」という世界(それは単なる思い込みの主観的な世界なのだけれど本人には客観的な現実としか思えない)を結実させているだけにすぎない。
中には確かに本当に見下してくる人もいるかもしれないが、その人はその人でその思考パッターンによって苦しむことになるため、その人にはその人の思考パッターンによってそう見えているさかいなー、とエセ関西弁風に放って置くのが一番だ。
それと同様に「弱いものは死んだほうが世の中のためだ」という価値観を持つことができているということは、前提として、自分は永遠に強いものであり続けるという発想がある。
しかし、その前提は諸行無常の理によって必ず崩れ、そして自分が弱い者の側になった時に、自分の発想が刃となり自分の存在を否定し始め、こんな弱い自分は死んだほうがいいという呪いに変わる。
日頃から自分が「価値がない人」に対する否定の気持ち(あんなやつはいなくなればいい、あんなやつがいなくなれば世界よくなる)が強ければ強いほど、諸行無常の理によって自分が「価値がない人」に転じた時に、それは一気に希死念慮に変わりやすくなる。
というように、今の苦しみなり希死念慮はこれまでの自分の思考パッターンが原因となって生み出されている。自分がこれまで他人を見下したり他人を否定したりしてきたものがただただ返ってきているだけで、自分の思考パッターン内で起こっている思い込みにすぎない。
このことに気がつけば、今感じている苦しみや希死念慮は自分の思考パッターンを見直す好機、すなわちアタックチャーーンスにすることさえできる。
このような思考パッターンだったからこのような苦しみが生じている。んじゃあ、時間はかかるかもしれないけれど、そうではない別の思考パッターンに切り替えていってみようジャマイカというようなボブ・マーリー風なことができるようになる。
不安や恐怖や強迫観念や希死念慮といった苦しみを感じたら、それらを生じさせている自分の思考パッターンを見直す。
自分の思考パッターンを見つめていくと、自分がどのような価値づけをして世界を見ているのか、どのようなものを見下しているのか、どのようなものを馬鹿にしているのか、どのようなものを否定しているのか、どのようなものを呪っているのか、どのようなものを嫉妬しているのか、どのようなものを軽蔑しているのかということが見えてくる。
そうして見えてきたものが日頃感じる漠然とした不安や恐怖や強迫観念や希死念慮の本当の原因であるためそこをネバギバの精神で気長に寛容に変えていけばいい。
(言うまでもなく、変えていく対象は自分の思考パッターン、すなわち自分自身であるため、自分の思考パッターンにさえもスパルタ方式でいくと、それは結局何も変わっていないのと同じであるため「気長に寛容に」というのが肝心だ)
声出して切り替えていこう。