おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

自作自演の世界

国民としてのわれわれは、あまりにも怠惰なために学ぶことをせず、また、あまりにもごう慢なために学ぶ必要すら意識していなかったのである。自分のものの考え方がいかなるものであれ、それが正しい考え方だと信じこみ、それ以上調べてみようともしなかったのである。また、よく考えもせずに、自分のしていることがなんであれ、それが正しいことだと思っていたのである。自分たちは間違ったことをしているのではないか、と真剣に考えることができないほど、われわれは間違っていたのである。われわれの怠惰とナルシシズムが相互に助長しあい、その結果われわれは、それが何を意味するかすら考えもせずに、流血をもって自分たちの意志をベトナム人に押しつけるために出かけていったのである。

M・スコット・ペック『平気でうそをつく人たち』

 

アメリカ人の著者は上記のようにベトナム戦争を振り返っている。

 

アメリカは正しい国なんだ、最強の国なんだ、価値のある国なんだ、という証明するためにベトナムくんだりにまで出かけた。

 

我々はこんなに価値のある国なんだと信じ込みたいイッメージ、我々はこんなに価値のある国なんだと思い込みたいイッメージに囚われて、それを証明するために、何かを悪とし、自分は正義という立場に立って悪を叩き潰しに行く。

 

歴史を振り返ると我々はずっとこのパッターンで戦争を繰り返しているし、これは国だけではなく、自称大人である我々個々人もこのパッターンで日々誰かに争いをしかけては、誰が正しいのか誰が勝者なのか誰が上なのか誰が価値のある人間なのか誰が善なのかの証明合戦を繰り返しているように思える。

 

我々の宗主国アメリカ大先輩だけではなく、個々人も自分は正しい人間なんだ、強い人間なんだ、価値のある人間なんだ、ということを証明するために日々を生きている。

 

正しい人間、強い人間は勝者であり、間違っている人間、弱い人間は敗者であるという思考パッターン。

 

勝ち負けに囚われている思考パッターン。

上下に囚われている思考パッターン。

価値のあるなしに囚われている思考パッターン。

善悪に囚われている思考パッターン。

 

そこには、勝者でないといけないという強迫観念がある。

上の人間でなければいけないという強迫観念がある。

価値のある人間でなければいけないという強迫観念がある。

善良な人間でなければいけないという強迫観念がある。

 

そこには、敗者は見捨てられるという不安と恐怖がある。

下の人間は見捨てられるという不安と恐怖がある。

価値のない人間は見捨てられるという不安と恐怖がある。

悪人は見捨てられるという不安と恐怖がある。

 

なぜそのような不安と恐怖が生じるのか。

それは、自分が「敗者」とみなした人をどうでもいい奴として見捨てるからだ。

自分が「下の人間」とみなした人をどうでもいい奴として見捨てるからだ。

自分が「価値のない人間」とみなした人をどうでもいい奴として見捨てるからだ。

自分が「悪人」とみなした人をどうでもいい奴として見捨てるからだ。

 

人に一定の基準(自分にとって都合がいいかどうか)を課し、その基準を満たさない人間を「敗者」「下の人間」「価値のない人間」「悪人」とみなし、彼らを傷つけ、切り捨て、抹殺すれば世界はきれいになり素晴らしくきれいになるという思考パッターン。

 

この思考パッターンに則り、自分自身が基準に満たない他者を見下しフルボッコにしようとするからこそ、自分自身も基準に満たなければ見下されフルボッコにされるという不安と恐怖に駆られてしまう。

 

だからこそ、おれは「敗者」でも「下の人間」でも「価値のない人間」でも「悪人」でもないんだ、おれは「勝者」であり「上の人間」であり「価値のある人間」であり「善人」なんだということを強迫的に証明しようとする。

 

その証明活動としての戦争、紛争、競争、金、権力、地位、名声、能力、名声、フォロワー数、ブランド品、アイフォーン、資産額、学歴、職業、読んだ本の数、抱いた女性の数、TOEICスコア

 

自分で勝手に基準を設け、勝手に他者を見下してはフルボッコにしようとし、勝手に見下されてフルボッコにされると思い、勝手に思い込み、勝手に不安と恐怖に駆られて勝手に強迫的にネバギバ精神で頑張っている。

 

その過程で自分を傷つけ他人を傷つけている。

そしてそれも「正しい自分」というイッメージの証明活動の一環として、「正しさ」という名のもとに正当化されている。

 

本来的に「ない」ものである「勝敗」「上下」「善悪」「正しさ間違い」「価値のあるなし」を個人的なり集団的に勝手に作り出し、それを絶対化し、それを根拠に自分を「価値のある人間」として規定しようとして一喜一憂し、右往左往している自称大人。その筆頭株主である私。

 

全部自作自演の世界。

シルク・ドゥ・ソレイユ級の自作自演の世界。

 

まさに空即是色(本来「ない状態=空」から「勝手な思い込みや実体=色」を作り出している)。

 

これに気がつけば、色即是空もわかる。

 

つまり「勝手な思い込みや実体=色」をそれってただの自分の思い込みじゃんけ、本当のところは全然わからへんじゃんけ、そもそも何もなくてただの自分の思い込みがあるだけじゃんけ、さらにどうしようもないことに、自分にとって都合の良いようにしか物事を捉えることのできない自分の思い込みがあるだけじゃんけ、と空じることができる。

 

これまでの特定の思考パッターン、そしてそれに基づく実際の行動、それら一連の自作自演の積み重ねの結果、今の目の前の世界(=物事の捉え方、そしてそれに基づく行動パッターン)が展開され、その世界の中で苦しみや歓びが生じている。

 

そしてその苦しみや歓びは他人や社会が直接的にもたらしているのではなく、自分の思考パッターンとそれに基づく行動パッターンがもたらしている。

 

(無論オムロン、その思考パッターンは誰かから植え付けられたかもしれないが(特に幼い頃に親から植え付けられている場合が多い)、植え付けられたということはネバギバの精神でそれを引っこ抜き、別の思考パッターンへ移行することもできる。

 

自分の苦しみの直接的な原因を延々と他人や社会のせいし、他人や社会を責め立ててばかりいると、それ自体が苦しみをもたらす思考パッターンであるため、延々と苦しみから抜け出すことはできない。

 

だから、親や誰かを責めてもその思考パッターンから抜け出せることは絶対になく、むしろその思考パッターンにはまりこんでいくだけで破格のスケールで意味がない、それどころが自分にとって有害でしかない)

 

ということは、今現在の思考パッターン、そしてそれに基づく行動パッターンを変えていけば、未来において展開される世界(=物事の捉え方、そしてそれに基づく行動パッターン)も自然と変わっていくことになる。

 

結論からいうと、自分や他人全般(自分が捉えている他人は自分の主観を通じて捉えている他人であるため、他人そのものではなく自分自身ということになる)に対して温かい思いを起こし大事にしようとすると、その積み重ねによって歓びが生じ、自分や他人全般に対して冷たい思いを起こし粗末にしようとすると、その積み重ねによって苦しみが生じる。

 

んじゃあ、今の自分はどのような思考パッターンの中にいて、何を良いものとして頑張っていて、どうなることを恐れていて、どういう理想の自分像に執着していて、物事は今現在どのように見えているのか。どうしてあの人のことは肯定できて、あの人のことを否定してしまうのか。

 

こうして自分のことを深堀りしていくと、自分はこういう人間なんだと思い込んでいる理想の自分像とは違う実際の自分の側面が見えてくる。

 

きれいな自分のセルフ・イッメージからかけ離れた醜くて汚い実際の自分の側面が見えてくる。

 

(我々は、きれいな自分というセルフ・イッメージをモノサシにして自分の中の「醜い」「汚い」というものを定義していて、絶対的な「醜い」「汚い」というものは実はない)

 

こんな自分の側面は到底受け入れられへんどす。

私はそんな醜くて汚い側面のないきれいな人間でざます。

 

そうして今日も私は実際の自分の側面を受け入れることを拒否し、見たくない自分の側面をかき消すためにネットの海に沈殿し、きれいな自分像の証明活動としてブログでも書くことにしよう。

 

ということが客観的に見えている自分、という自分に自惚れている自分、という自分に気がついている自分、というの自分に自惚れている自分、という自分に気がついている自分、という自分に自惚れている自分、という自分に気がついている自分、という自分に

 

きりがないので歯磨きします。

 

声出して切り替えていこうと思う。