おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

自分なりの上下の世界

下層階級と接するときにはいつも自分の身体の欠点を意識させられてしまう。”僕は僕だ。でもそうでなかったらどんなにいいだろう”。この異常に過剰な自意識が苦しくてたまらない。デルタの顔を見るときに、自分の視線が下ではなくまっすぐ前を向いているのを意識するたびに屈辱を覚える。こいつは上の階級の人間に対する敬意を持って僕を見ているだろうか。そんな疑問がいつもつきまとう。当然だ。ガンマもデルタもエプシロンも、ある程度まで体格と社会的優劣を結びつけて考えるように条件づけされているからだ。というより、睡眠教育のおかげで身体の大きさに関する漠とした偏見はすべての階級にあまねく浸透している。

オルダス・ハクスリーすばらしい新世界

 

この小説の世界では人びとがきっちりと階級に分けられていて、上の階級に行くほど体が大きく、下の階級ほど体が小さい。

 

そして「異常に過剰な自意識」に苦しんでいるバーナードという人物は、上位の階級であるにもかかわらず体が下位の階級と同じくらいで、それ故に下の階級の者からちゃんと上位の人間として見てもらえているのか不安になっている。

 

要するに上下に執着して苦しんでいる。

 

彼らは何が上で何が下かという条件づけが社会的にされている世界に生きている。

 

上の人間とされたものが下の人間を見下しながら生きていく世界。

あるいはある階級が別の階級を見下しながら生きていく世界。

 

他人を見下すことによって自分のたちの正当性や価値を見出しやすくなり、そうして見出された価値を根拠にして、価値のある自分はここに存在してもいいのだと自己肯定する。

 

んじゃあ、これは小説だけの世界なのかというと決してそうではなく、私たち自身も上下に執着して苦しんでいる。

 

小説の中のように階級(という幻想)が社会的に存在していて、その階級意識を幼少期の頃から制度的に条件づけていくということはないけれど、個人レベルでは上下というのものがあり、その個人的な上下の中で自分が上なのか下なのかに囚われて日々を生きていることが多い。

 

個人の上下の世界は何を基準とした上下の世界なのかによって個々人で異なる。

 

資産額を基準とした上下の世界

所有物を基準とした上下の世界

権力を基準とした上下の世界

知性を基準とした上下の世界

肩書を基準とした上下の世界

出生を基準とした上下の世界

有能さを基準とした上下の世界

生産性を基準とした上下世界

肉体美を基準とした上下の世界

おしゃれを基準とした上下の世界

知名度を基準とした上下の世界

結果や実績を基準とした上下の世界

経験を基準とした上下の世界

住んでいるところを基準とした上下の世界

年収を基準とした上下の世界

褒章を基準とした上下の世界

正しさを基準とした上下の世界

善良さを基準とした上下の世界

国籍を基準とした上下の世界

民族を基準とした上下の世界

宗教を基準とした上下の世界

健康を基準とした上下の世界

結婚を基準とした上下の世界

職業を基準とした上下の世界

恋人の有無を基準とした上下の世界

働いているかどうかを基準とした上下の世界

 

などなど種々様々なものを軸とした上下の世界があり、私たちはそういった自分なりの上下の世界(自分の中では存在しているが、実際には幻想であり虚構でしかない世界)で少しでも上の存在なろうとネバギバ精神で努力し、少しでも下の存在にならないようにネバギバの精神で頑張っている。

 

そして私たちが自分なりの上下の世界の軸とするものというのはことごとく諸行無常の理によって必ず崩れ去る。

 

この世は私たちが信じようと信じまいと諸行無常の理が作用しており、生じたものは必ず滅する。ずっと同じものはない。

 

そのような世界の中で、私たちはこれは間違いないというものがあると信じ、そう信じたものを軸として上下の世界を自分なりに作り出し、その上下の世界の中で、自分が「上」であることを証明してくれると思われるもの、自分は「下」ではないということを証明してくれると思われるもの、そういったものをかき集めることに人生のほとんどの時間と労力とお金を費やし、諸行無常の理によって、その間違いないと信じたものの価値が崩れ去るか自分自身が崩れ去りオールリセットされる。

 

自分はどういった上下の世界に囚われていて、何をかき集めて自分が「上」であることを証明し、アッピールすることに必死なのか、何をかき集めて自分は「下」ではないことを証明し、アッピールすることに必死なのか。

 

私の場合はこのように物事を客観的に見ている、みたいな感じのニュアンス的な雰囲気を醸し出し、「自分はその辺の人間とは違い、賢いんだ」ということをアッピールし、「賢い自分」というものを証明し、アッピールし、「賢い自分」みたいな感じのニュアンス的な雰囲気のものに酔いしれているのかもしれない。

 

そしてそういう賢い自分をアッピールしようとしている自分を客観的に見ている自分にも酔いしれていて、また客観的に見ている自分に酔いしれている自分を自覚できている自分にも酔いしれていて、というように堂々巡りをし、最後にはきりがなくなって、よし声出して切り替えてこうとなっているのかもしれない。

 

声出して切り替えていこうと思う。