おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

「上」という幻想

「エピソードトーク内高級タワマン在住主張型の人」は「都心のタワーマンションの高層階に住めることは経済的・社会的な地位が上な証だ」という(実は全く自明ではないどころか間違っているさえいる)価値観を受け入れてしまっている。

岩尾俊兵『世界は経営でできている』

 

私たちは「誰が上で誰が下か」「誰が価値があって誰が価値がないのか」「自分はあの人より上か下か」ということに執着しながら生活していることが多い。

 

しかしその「上」とか「下」というのは、自分が勝手に想像している自分の世界にしかない自分独自のモノサシやヒエラルキーで、要するに幻想なのだけれど、その幻想の中で少しでも上になろう、価値のある人間になろうと必死になっている。

それがザ・私たちだ。

 

なぜそこまで必死なのかというと、自分の中に世界に対して一定の条件を設けていて、その条件を満たしている人しか大事にしない、存在を認めないからだ。

 

条件つきでしか人のことを大事にしない、条件つきでしか人の存在を認めないからこそ、その条件を満たさなければ自分も大事にされない、存在を認められないと思ってしまう。

そういう世界、そういう価値観の中に生きているからだ。

 

そしてその条件というのが「上」ということなのだろう。

 

「上」でなければ大事にされない、「上」でなければ認められない世界に生きているから、自分がいかに「上」なのかをアッピールせずにはいられない。

 

繰り返すが、その「上」というのは自分が生み出している幻想にすぎないし、「「上」でなければ大事にされない、認められないという世界」も自分が生み出している個人的な世界、価値観、幻想にすぎない。

 

自分が「上」であることをアッピールするためのシンボル、記号、アイテムみたいな感じのニュアンス的は雰囲気っぽいものになり得るものはタワマンだけではなく色々あるが、それは個々人の世界によって異なり、それ故に無限にあるのでここでは割愛するっつたい(となぜか熊本弁になってしまった)。

 

そしてどのモノサシ、どのヒエラルキーであろうと、必ず自分より「上の人」というのがほぼ確実に存在するため、どんなに頑張っても「まだこんな自分ではいけない」「もっと上の人間にならなければいけない」「もっと価値のあるものを手にれてもっと価値のある人間にならなければならない」と際限なく自己否定と劣等感に苛まれ続け、不毛な虚勢合戦に身を投じ、心身ともに疲れ果てることになる。

 

この苦しみのそもそもの原因は、自分の実力不足でも努力不足でも誰かのせいでもなく、条件つきでしか人のことを認められない、条件つきでしか人のことを肯定できない自分の心のあり方にある。

 

私たちはこの世界を自分の心を通して捉えている。逆に、自分の心を通さずに世界を捉えることは絶対にできない。自分の心を通して世界を捉えているからこそ、同じ物事に対しても一人ひとりの捉え方が異なってくる。

 

よってどんなに周囲の環境が変わっても、自分の心が変わらなければ世界の捉え方、つまり自分がいる世界は同じままなので、同じような苦しみを味わい続けることになる。

 

タワマンに類する「自分は上だということを証明してくれるっぽいもの」を見せつけられた時、自分にはどのような感情が湧き起こってくるかしらん。

 

自分で上下の世界を作り出して、こんな自分はダメだ、上でなければ認められないと思い込んでいて自己否定をしているんだなー、苦しいんだなー、可哀相だなー、話し聞いてやるかー、という思いが湧き起こってくるのか、負けたー、おいどんよりあいつのほうが上だ、先を行っている、こんなおいどんはダメでごわす、絶対に頑張って見返してやるでごわす、いや、つーかあいつの勝ちなんて認める必要はない、たしかにあいつはタワマンを持っているかもしれないが、時々、野糞をするようなゴミ野郎だ、人としてどうかしているのだから、実質おいどんのほうが上ジャマイカ、という思いが湧き起こってくるのか。

 

前者は仏か菩薩の思考パッターン、つまり上下という幻想を離れた思考パッターンで、後者はタワマンを根拠に人を見下そうとしてくる人と同じ世界、つまり何かを根拠にどちらが上か下を問題する思考パッターンだ。

 

人の自慢に遭遇した時は、その人はどういう幻想の中にいるのかしらん、何が根拠のどのような上下の世界にいるのかしらんという観点から話を聞くと面白いかもしれない。案外と自分と同じ幻想の中にいると気がつくことができるかもしれない。

 

声出して切り替えていこう。