おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

自分のために人を肯定する

先日、ラーラ・プレスコットさんの『あの本は読まれているか』を読んだ。同書に以下のようにあった。

 

「正しいかどうかは重要じゃない。どんなタイプの人間かということを素早く評価するために必要な情報を得ることが大事なの。人は自分でも知らないうちに、自分について多くのことを明らかにしているものよ。単にどんな服装をしているか、どんな外見かという以上のことをね。だれでもすてきな青と白の水玉ワンピースを着て、シャネルバッグを持つことはできるけど、それでその人が新しい人間になれるわけじゃないわ」

 

すてきな青と白の水玉ワンピース、シャネルのバッグ、これらは「価値のあるもの」を象徴している。

 

そして価値のあるものを手に入れても、それだけで自分は何も変わらないということを示している。

 

私たちは価値のあるものを手に入れれば、自分が変わると思っている。

価値のあるものを手にれれば、価値のある自分になれると思っている。

価値のあるものを手に入れて、価値のある自分というものを定義しようとしている。

 

金や財や権力や地位や名声や才能や美貌や若さや知性や教養や正しさを手に入れれば、価値のある人間になれると思っている。

 

そうして価値のあるものを手に入れて価値のある人間になれば、無条件で人は自分のことを認めてくれて、自分のことを大事にしてくれると思っている。

 

ここに大金をもっているかどうかで人を判断し、自分が金がないことにコンプレックスを抱いている人がいたとする。彼の名前をロドリゲスとしよう。

 

ロドリゲスは大金を手に入れれば、自分は価値のある人間として一目置かれるようになり、周囲の人間から大事にされると思っている。そういう思い込みの世界に生きている。

 

ある日、ロドリゲスは宝くじに当選し、3億円を手にした。ロドリゲスの思い込みの世界の中では3億円という価値あるものを手に入れたら、その分自分も価値のある人間になれると思っている。

 

しかしながら、金は電子データでしかないため、持っているだけでは誰も俺が金持ちだということに気づいてくれない。アッピールする必要があるジャマイカ。自分が金持ちであるということを周囲に知らしめることができれば、周囲の人間はおれのことを認め、大事にしてくれるだろう。

 

そうしてロドリゲスは高級車や高級品をかき集めては自分はお金を持っているというアッピールをし、自分よりもお金を持っていない人間を見下すことによって自分はお金を持っているというアッピールをし始めた。

 

ここで果たしてロドリゲス自身は変わったのかということを考える必要がある。

 

ロドリゲスは持ち物や付き合う人間は変わったかもしれない。ロドリゲスの性格も卑屈なものから傲慢なものへ変わったかもしれない。しかしながら、金を基準に人に優劣をつけたり、人を裁いたりするという根本的な思想は変わっていない。自分よりも金持ちの人間は丁重に扱うべきで、金を持っていない人間は粗末に扱ってもいいという思想自体は、金を持つ前から変わっていない。このような根本的な考えが自分の世界を作り出す。自分の世界の感じ方を作り出す。

 

ロドリゲスは金がない時もある時も、お金を基準とした劣等感・優越感の世界の中にいて、その世界の中で以下に優越感を得られるかということに重点を置いた生き方をしている。その世界観は自分の思い込みによって作り出したもので、その世界観こそが自分自身なのだけれど、それは大金や高級品を始めとした自分ではないものを手に入れただけではそう簡単に変わらない。同じ世界の中で優越感が増したり、劣等感が増したりするだけだ。

 

そして、自分が優越感を感じられる状態だからといって他人が自分を大事にしてくれるかどうかはわからない。

 

ロドリゲスの場合、周囲に金持ちアッピールをして、自分が優越感を得るために周囲に劣等感を抱かせる言動をとっているわけだから、仏でない限り、彼のことを大事にしたいと思える人はいないだろう。

 

周囲に集まってくる人間は彼の金を大事に思っているだけで、ロドリゲス自身もその金がなくなれば彼らは去っていくということも薄々わかるわけだから、そこには安心感のある人間関係はない。

 

大金を手に入れれば、価値のある人間になれるし、そうして価値のある人間になればみんなおれのことを大事してくれるという迷妄にはまり込んでいるロドリゲスは、まだ金が足りないからみんな認めてくれないんだ、もっと金があればみんな認めてくれるんだ、と今ある大金にも満足できずに、さらに金を求めるようになる。もうすでにあるのに、ロドリゲスにはそれが大金には見えなくなる。彼の世界の見え方としては、また金がないという最初の段階に戻ってしまう。

 

ロドリゲスは「金を基準とした優越感と劣等感の世界」の中に生きているが、私たちのほとんどが「何かを基準とした優越感と劣等感の世界」の中に生きている。そしてその中で苦しんでいる。そしてその苦しみというのは、何らかの形で劣等な人間は粗末に扱われるという不安や恐怖なのだけれど、その不安や恐怖は自分自身が何らかの形で劣等と見なした者を粗末に扱う、劣等と見なしたものに対して冷淡な気持ちを起こしているからこそ生じてくる。

 

あいつは〇〇だから価値がない。価値がないやつなんてどうなってもいい。

このような思いを普段から起こしているからこそ、自分が何らかの形で価値がない人間になってしまうこと、価値がないと思われることが怖くなる。

 

自分が人に、あんな奴は打首獄門じゃ、と思っている分、自分が価値のない人間になってしまうと、他人から、あんな奴は打首獄門じゃ、と思われていると思って不安になる。誰も実はそう思っていないのに、自分が他人に対してそう思っているから、他人もそう思っていると思ってしまう。つまりは単純に、自分の普段の思いによって自分が苦しんでいるのである。その苦しみの原因は他人ではなく、自分の普段からの思いにある。

 

だからロドリゲスの場合、金をかき集めたり、金持ちアッピールに必死になるのではなく、相手の財産以外の部分で、どんなに些細で平凡なものでもいいので(むしろそのほうがいい)その人の良いところ、感心できるところを見つけて肯定してあげることに注力したほうがいい。自分が相手を肯定する温かい思い、相手を楽勝で肯定する思いが、自分の世界観を変え、その世界の中では自分が人を肯定し受容している分、自分も人から肯定され受容されていると感じやすくなる。

 

人のために人を肯定するのではなく、自分のために人を肯定する。善人ぶる必要はない。人のことを100%心から思いやれるのは仏か神だけだ。私たち人間には無理だ。少なくとも、汚物の詰まった皮袋でしかない私にはできないね、ロドリゲス君。

 

ロドリゲスというのが誰だかわからなくなってきたのでここで終わります。

 

以上。