おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

他人を見下すための人生だった

私たちは常日頃から「価値」を求めて奔走している。

 

「価値」というのは世間の多くの人が価値があると認めるもののことだ。

 

例えば、金、財、権力、名声、美貌、運動神経、知識、知能、経験、肉体、才能、健康などなど・・・。

 

つまり、私たちはこれらの価値をどうにかして手に入れようと試行錯誤しているし、今日の経済は「こうすれば金持ちになります」「こうすれば知的になります」「こうすれば健康になります」と価値を求めて競争することを煽ることで成り立っているようなものだ。

 

価値を持っている人は、多くの人々から価値のある人として仰ぎ見られ、価値を持っていない人はどうでもいい存在として見下される。

 

我々は見下されたくない。そして、価値を手に入れて他人を見下したい。

 

だから努力する。他人を見下すために努力する。

 

仕事も勉強も買い物も運動も、価値を手に入れ、他人を見下し、優越感に浸るためだ。

 

恥ずかしながら私も何らかの優越感を求めて人生のほとんどの時間を過ごしてきた。やべぇ。

 

テストで高得点を取る自分になって他人を見下すために学校の勉強に励んできた。

知的な自分になって他人を見下すために読書や勉強に励んできた。

運動神経の良い自分、筋肉の程よくついた肉体を持っている自分になって他人を見下すために部活や運動に励んできた。

貴重な経験を有している自分になって他人を見下すために放浪旅をしていた。

おしゃれな自分になって他人を見下すために服や靴を買い漁っていた。

金持ちになって他人を見下すために仕事や貯金・投資に励んでいた。

 

私は価値を手に入れて、人よりも上に立ち、人を見下し、人から認められようとしてネバギバの精神で右往左往していた。外面を価値で整えて、不特定多数の人間から認められようと試行錯誤してきた。実に情けない。ぴえん。ぽよん。ぽよん?

 

価値は時間とともに朽ち果て、離れていくものだし、自分もいずれ死んでその価値はすべて手放さなければならない。そもそもそれらの価値は自分自身ではない。お金はお金であり、私自身ではない。ブランド品はブランド品であり、私自身ではない。肩書は肩書であり、私自身ではない。

 

自分ではないものを自分自身であると思い、自分自身ではないものの価値をもって自分自身の価値を上げようとすること。そうして自分の価値を上げることによって人を見下し、優越感に浸ることで自分の価値を実感・確認・証明しようとすること。このような方向性で私は生きてきた。この種の傾向は私に限ったものではなく、この世に生きるほとんど全ての人に当てはまる。

 

優越感のための努力は上下のある世界(の見え方)を作り出し、自分自身を上下のある世界に閉じ込める。

 

その世界では常に自分より上の存在がいて、きりがない。そして自分が下(だと自分で勝手に思い込んでいる)の人間を見下してきた分だけ、自分が上(だと自分で勝手に思い込んでいる)の人間に出会うと、自分がその上の人に見下されているように感じて苦しむことになる。

 

つまり、優越感のための努力は苦しみを生み続ける。

 

んじゃあ、どのような方向性の努力をすればよいのかというと、自分を大切にするための努力、身近なものや身近な人を大事にする努力だ。

 

例えば、筋トレ。

 

人よりも筋力をつけて、人を見下すために筋トレをやるのではなく、運動をしないと体がなまって不調をきたしてしまうので、体を大事にするために筋トレをする。みたいな感じのニュアンス的な雰囲気っぽい塩梅である。

 

まぁ、こんな感じのことが最近になってようやっとわかってきた。

反省だな。