おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

運動の目的の確認

最近筋トレのメニューを組み直したのだけれど、そのメニューというのが、少し多すぎると言うか、キツすぎるというか、時間がかかり過ぎるというか、しつこいというか、とにかく私にとっての運動の目的である「適度に動かして体を大事にするための運動」ではなく「筋肉をかき集めるための運動」になってきているような気がしてきたのでもう一度見直して、メニューを削ぎ落とすことにした。

 

私にとっての理想は、体を整えるために適度に体を動かして、その結果筋肉がついていればラッキーくらいだったのだけれど、いつの間にかいかに体を鍛えあげてバキバキの体にするかということが理想になってしまっていた。反省だ。

 

筋肉というのは確かにネバギバの精神で頑張れば、強靭になるし大きくなる。そうして手に入れた筋肉によって自分のことを「価値のある人間」として肯定しやすくなるし、人から「すごい」と言われることもあるかもしれない。そして、その根底には優越感を求める心がある。

 

強靭な筋肉を手に入れて自分を肯定したいということは、現在の自分への否定がある。仮にネバギバの精神で強靭で大きな筋肉を手に入れたとしても、筋肉崇拝は、自分よりも筋肉がない人を見下しやすくなるし、この広大無辺な世界には必ず上の存在というのがいるために、一向に現在の自分が肯定できないし、実際にそういう「上の人」と合うと見下されていると感じて苦しみやすくもなる。

 

仮に天下一の筋肉野郎になれたとしても、膨大な時間と労力とお金を費やして手に入れた筋肉は諸行無常の理によって萎み衰え朽ち果てていく。これまで自分の自信としていたもの、自分を肯定するための根拠としていたもの、他人が称賛してくれるであろうと期待していたものがなくなっていく(そして、いずれ死によって全てを手放すことにもなる)。

 

そうすると、これまで自分がそれを根拠にして他人を見下したり馬鹿にしたりしていた分だけ自分が価値のない人間であるかのように思えてきて、周囲の人間から見下されたり馬鹿にされたりしているような気がしてきて苦しくなる。

 

もちろんどんなに鍛え上げても、それを根拠にして他人を見下さなければいいのだけれど、私たちはそんなに善良ではない。価値あるものを手に入れ始めると、それを持っていない人を見下すようになってしまうのが大半だ。そうして他人を見下したり馬鹿にしたりすることが苦しみの根本的な原因となる。一度手に入れた価値あるものを手離すまいと握り締めるようなことをしてしまう。一度つけた筋肉を衰えさせまいと無理をしたり、より強度で長いメニューを組んだりしてしまう。

 

運動の目的が「人から良い評価をかき集めて他人を見下すこと」になってしまっていた。私にとって運動の目的は「自分の体を大事にすること」である必要がある。あとで苦しみたくないからな。この目的を定期的に確認しないと、つい他人を見下す方向へ動いてしまう。情けないが、私にはそういうところがある。

 

人からの良い評価をかき集めようとしなければやらなくていいこと、優越感を求めなければやらなくていいこと、他人を見下そうとしなければやらなくていいこと、というのはたくさんある。

 

おかげで筋トレのメニューもすっきりさせることができそうである。