おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

一人で楽しめる人間だと思っていた

私はこれまで自分は一人で時間を楽しく過ごせる人間であると思っていた。

 

作家中島らもの言葉に「教養というのは学歴などではなく、一人の時間を一人で潰せる能力のことだ」みたいものがあって、一人の時間を充実させる能力が大切だと思い、私は段違いな勘違いをして、おれは一人で楽しいどす、人といると疲れるどす、みたいな感じの京風な雰囲気で、身近な人のことを粗末に扱ってきてしまった。

 

しかーし、本当に一人であるという状態、本当に孤独であるという状態、つまり「自分のことを大切に思ってくれる人もいないし、自分が大切にしたいと思う相手もいない」状態では、人は何事も楽しめない。

 

つまり、真に孤独になると、ただただ悲しいだけで、楽しいどころではないのだ。

 

「いや、それでも、私は一人の時間を楽しめている」と思う人は、心のどこかで、あの人には大切に思われている、と思えていることができた上で楽しんでいるか、心のどこかで、あの人とこの楽しさを共有したいなー、と思いながら一人の時間を楽しんでいる。

 

つまり、一人の時間を楽しめているのは、自分にとって大切な人がいるからなのだ。そして、その人はその大切な人のおかげで真に孤独ではない。だから一人の時間を楽しめている。

 

しかーし、私たちにはその大切な人の存在が当たり前過ぎて見えない。

 

本当は最優先で大切にしないといけないのに、おいどんは一人で時間を楽しめる人間、孤高の人、すなわち我なりと自惚れて、大切な人の存在を無視してしまう、蔑ろにしてしまう。

 

繰り返すように、自分は一人の時間を楽しめると勘違いできるのも、孤高の人であると自惚れることができるのも、自分のことを大切に思ってくれる人がいることによる安心感があってこそだ。その種の勘違いも自惚れも、それはただの傲慢に過ぎない。

 

この勘違いと傲慢に気づかずに、大事な人を粗末に扱い、蔑ろにしていると、最悪の場合、自分のことを大事に思ってくれる至極貴重な存在からも見切りをつけられるということもありえてしまう。

 

そうなると寂しさに満ちた人生は確定したようなものだ。

 

一人の時間を充実して過ごしている時、これは身近な人の誰のおかげなのだろうかとふと立ち止まって考えていけるようになりたいぜい。