おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

やっぱり心なんだよな、まじで

お金持ちになるか、貧乏のままでいるか、それは心が決めるんです。心が変わって、行動が変わって、その結果が世界に反映されます。

 

お金で買える喜びはすべて――素敵な服も、おいしい食べ物も、優雅な部屋も、豪華な旅行も――他人が作ったものです。でも、どんなにつらい状況でも、それを楽しもうとする気持ちさえあれば、人は、自らの手で喜びを作り出すことができます。お金がなくても、人は幸せになることができるんです

水野敬也『夢をかなえるゾウ2』

 

金持ち=幸福という図式が嘘であるの間違いない。

 

金持ちなのに日常生活が悲惨、人間関係が悲惨、精神衛生が悲惨な人というのはたくさんいるし、調べると枚挙に暇がない。

 

金持ち=高収入の人の中にも幸福な人と不幸な人がいて、貧乏=低収入の人の中にも幸福な人と不幸な人がいるということになる。

 

よって、心が変わって行動が分かってその結果として金持ちになったとしても、不幸であればそれは意味がない。

 

私たちは金持ちになれば幸福になれると信じて金持ちを目指すが、金持ちになっても幸福になれなければそれは意味がない。

 

金持ちになれば幸福になれると信じて金持ちなったにも関わらず全然幸福になれなかったとすると、金持ちになれば幸福になれると信じてはいるけれどまだなれていなくて日々じりじりしている人よりも、信じたことが間違いだったと知らされた分だけ絶望が大きいのかもしれない。

 

ということは、金持ちが貧乏かということではなく、幸福か不幸かといことがやはり根本的には大事になってきて、幸福か不幸かということはやはり心が決める。

 

私たちは物事を捉えるときは必ず自分の心のフィルターを通して捉えているので、心が苦しみに満ちていれば世界は悪く見え、心に苦しみがなく喜びに満ちていれば世界は澄んで温かいものに見える。

 

だから不幸な状態、心が苦しい状態でどんなに金を手に入れ、素敵な服やおいしい食べ物や優雅な部屋や豪華な旅行を手に入れても、退屈を感じ、ありがたい感じがしない。

 

私自身も明らかに心が苦しんでた時分に、例えば結婚式などで非日常的な空間で非日常的なご馳走にありつけたとしても、ほとんど何も覚えていないし、何の喜びもわき起こって来なかったし、お祝いしたい気分にもなれなかったし、何を食べても美味しいとは思えなかった。

 

そこから生活を整え、自分の心を整え始めると、玄米と納豆と生卵をかき混ぜただけのご飯でもしみじみとした美味しさを感じることができ、すごくありがたいというか満ち足りた気分になる。

 

綺麗事抜きに根本はやっぱり心なんだよな、まじで。ガチのムチで。

 

ここに気がつかないと、心を当然のごとく無視し、攻撃し、心を粗末にし、そうして心が苦しい状態を自分自身が作り上げてしまう。

 

すると平凡な日常が暗いものになってくるし、自分の内面が暗い状態になってくるので、キラキラしたものがすごく魅力的に見えてくる。

 

心は自分が見てくれないので、他人から見てもらいたいと思うようになってくる。

 

そうして、キラキラした非日常的なもの(素敵な服、おいしい食べ物、優雅な部屋、豪華な旅行)をかき集めようになり、そうしたキラキラした非日常的なもので「自分がいかに価値のある人間なのか」ということを他人に示そうとする。

 

その手の行動の奥底には心の苦しみがあり、心の寂しさがあり、心の不幸な状態がある。

 

無論オムロン、素敵な服、おいしい食べ物、優雅な部屋、豪華な旅行の価値を否定するつもりは一切なく、それらはそれらですごく価値があると思うのだけれど、心が苦しんでいない状態、少なくとも心の中に苦しみが少ない状態だと、自分の価値と自分ではないものの価値がきっちり区別できているので、非日常的なキラキラしたものへの飢餓感、渇望感、是が非でも手に入れたい、そういったものを手に入れないと人生意味がない、みたいな感じのニュアンス的な雰囲気の強迫観念はなく、正直どちらでもいい、あったらあったで楽しめるだろうし、なかったらなかったでまた別の楽しさがあるという感じになってくる。非日常的なキラキラしたものの有無が問題ではなくなってくる。

 

そして、心がある程度整っている状態でなければ、つらい状況、つまり物事が思い通りに行っていない状況において、それを楽しもうという気さえ起きない。

 

つらい状況の原因を他人に見出し、怒り散らし、罵詈雑言を喚き散らし、ネットに書き散らし、やっぱり私は不幸なんだ、この世は地獄なんだと被害者面をするだけだ。

 

(心が苦しんでいるために何を見ても悪にしか見えず、その結果、この世は地獄にしか見えないし、周囲が悪人にしか見えないし、自分は悪の他人によって苦しめられている被害者としか思えない。根本原因は自分が自分の心の加害者であることなのだけれど……

 

心を整える方法は、自分の内面に注意を向け、誤魔化すことなくあるものをあるものとして見ること。何の判断もせず、ただ見ること。きれいなものも醜いものもちゃんと見て、自分の一部として少しずつ受け入れていくこと。つまり瞑想することがメインになってくる。

 

ワケワカメな宗教団体に多額の献金をしても、自分が自分の内面に注意を向け、自分の中の善も悪も受け入れて行かない限り、何も変わらない。

 

どんなに多額の献金をしても、他人は自分(私)の内面を正確に注視することはできないし、自分の善や悪を直接受け入れることもできない。ここはガチのムチで自分の絶対領域であり、自分が自分でやるっきゃない。

 

本来自分がやるべきことを怠り、「多額の献金をするこんなに敬虔な自分」というきれいな自分像にばかり注意と労力が向けられているから、心は苦しいままで、生活が困窮し、家庭が崩壊し、同じ思考パッターンから生まれた「悪を罰する自分」というきれいな自分像に囚われた息子が、苦しみの原因を一刻の首相に見出し、その首相を抹殺すれば苦しみは消えると勘違いをし……というワケワカメな連鎖を

 

話が思いっきり逸れてしまったぜ。

 

自分が自分の内面に注意を向け、自分の中の善も悪も受け入れていくことに金はかからない。

 

愛と勇気がいるだけだ。

悪を否定せず、悪に寛容である愛と見たくない自分を見ようとする勇気がいるだけだ。

 

しかし、愛と勇気が友だちのはずのアンパンマンも自分が悪とみなしたバイキンマンフルボッコにしてもいいという懲罰思想をもっているわけで、愛と懲罰思想は絶対に両立しないということを考えると、アンパンマンは愛と勇気というよりは、正義と懲罰が友だちということになる。

 

また話が思いっきりそれてしまったぜ。

 

声出して切り替えていこうと思う。